一方で、さらなる被害拡大に繋がった可能性を指摘する専門家もいる。河川土木を専門とする今本博健・京大名誉教授が話す。
「今回の人吉地区のピーク流量は超ド級。私の推計では、戦後最大だった’65年水害の毎秒5700トンの1・5倍以上。毎秒8500トン、あるいはそれ以上にも達したと考えられます。
川辺川ダムがあったとしても、そんなスーパー大洪水を防げたはずがない。被害を低減できた可能性はありますが、雨量がわずかに増えたら、何倍にも被害は拡大したでしょう。なぜなら、球磨川上流の市房ダムは緊急放流水位まで残り10cmまで迫っていたからです。
ダムが水害を拡大する典型例は緊急放流。’18年の西日本豪雨では愛媛県の野村ダムが緊急放流を行い、下流域に大きな被害をもたらしました。今回もわずかに雨量が増えるだけで、市房ダム、川辺川ダムも緊急放流を余儀なくされ、下流域での被害拡大と逃げ遅れを招いた可能性が非常に高い」
実は、同様の不安を口にする被災者は少なくない。今回の豪雨で軽量鉄骨の自宅が半壊した人吉の70代男性は「川辺川ダムがあったらもっと悲惨なことになってただろう」と一蹴。自宅が2階天井近くまで浸水し、屋根の上で救助を待ったという球磨村の60代男性も「緊急放流されたら救助を待つ間に濁流にのみ込まれて死んでただろう」と話すのだ。
とはいえ、「ダムによらない治水」を実行に移すのは簡単ではない。
「国交省が’19年に提示した治水案を列挙すると、洪水発生時に水を導く遊水池の設置にかかる費用は1兆2000億円で、工期は110年。放水路という海などに放流するための人工水路の設置には8200億円かかり、工期は45年。川幅の拡張には8100億円で工期200年、堤防のかさ上げには2800億円と95年の工期を要するとされているのです。一方で、川辺川ダムは7割方できているので、1100億円の費用をかければ10年でできると見積もられている。もちろん、ダムがあれば治水は完璧だというものではありませんし、ダムには自然や生態系に影響を及ぼすというデメリットもあります。しかし、今回の熊本豪雨を見てわかるように、災害は起こってからでは遅いんです。100年以上かかるような治水対策は不可能ではありませんが、現実的でもありません」(藤井氏)
国交省の“代案”を見れば、もはやダム以外の治水対策は考えにくい。だが、今本氏は「鵜呑みにしてはいけない」と釘をさす。
「国交省はダム以外の治水対策にかかる費用等を大袈裟に見積もっています。実際、堤防のかさ上げにかかる費用は1mあたり100万円程度。1kmやっても10億円です。球磨川の全長は115kmですが、当然、人けのエリアのかさ上げは不要。30kmとしても300億円で済むのです。つまり、国交省が提示したのはダム建設に誘導するための“代案”。『ダムありき』の姿勢であるために、河川整備計画を策定してきませんでした。全国の一級河川109水系のうち、整備計画が未策定なのは球磨川だけなのです」
国は「ダムによらない治水対策」に後ろ向きだったと考えられるのだ。問われるべきは国の責任だけではない。蒲島郁夫県知事の責任を問うのは幸山政史・前熊本市長だ。
「蒲島氏は’08年の知事就任後に川辺川ダムの有識者会議を設置し、その年の9月に『ダムによらない治水』を目指すことを決定しました。今回の水害を受けて、当時の決定を『85%の県民が支持していた』と弁明しましたが、果たして本当か? その『85%』は川辺川ダム建設中止後に行われた地元紙の世論調査の結果ですが、重要なのはダムが建設される川辺川および球磨川流域の民意でしょう。流域にはダム推進の首長もいたし、県全体の世論調査では測れない。民意を問うのなら’08年の県知事選で唯一、川辺川ダムの是非について明確にしなかった蒲島氏の選挙に対する姿勢には疑問が残ります。ダムによる洪水被害の疑いから旧坂本村(現八代市)の請願を受けて撤去が決まっていた球磨川下流の荒瀬ダムを、知事就任直後に一転、存続させるなど、その姿勢が一貫していないのも気になる」
補足すると、熊本県と国、流域市町村で発足した「ダムによらない治水を検討する場」では、堤防の補強や宅地のかさ上げ工事などは実施してきた。球磨川と支流の合流地点では支流の水が逆流する「バックウォーター現象」を防ぐために流れの角度を変える導流堤の建設も進められてきた。だが、いずれの対策も「10年に一度の大雨被害ならまだしも、今回のような何十年に一度の大雨の前ではまったく役に立たなかった」(球磨村在住男性)のだ。今後到来する台風シーズンまで打てる手立てはあるのか? ダムのもつ危険性やデメリットも踏まえた上で、早急な治水対策が求められる。
<取材・文・撮影/週刊SPA!取材班>