ここで「
男性」と書いたのは、
有能/無能二元論とテクノクラート意識というのは、マチズモとしての男性規範と相性がいいのではないかという考えからだ。自らの弱さ、自らの無能を認めず(すなわち、無能は不能を想起させるから)、常に有能であろうとする男、対話によってではなく、自らの力と技で物事を解決する男。女性のように感情的ではなく、常に論理的(=効率的であり合理的)な男。
こうしたジェンダー的な価値規範が有能無能二元論を支えている部分は大きい(念のため付言するが、女性が有能/無能二元論を内面化しないという意味ではない)。いわゆる
マンスプレイニングも、男性は専門家であり女性は素人である、という固定観念から生じる。
しかし、公共的思考なき合理性や技術は、あらゆる事柄をフラット化してしまう。情報伝達手段としていまだにファックスを使うことと、回復の見込みのない高齢者を生かし続けることが、同じ水準において「非効率」なものとして認識されてしまうのだ。
ここにおいて、
技術信仰と「命の選別」は野合する。合理化や効率化のためには、「タブーなき」議題設定を常に行なっていく必要がある。倫理的な葛藤や慎重さは障害物でしかない。だって自由なのだから。有能な者は無限に与えられた自由の中で無限に価値を生み出すのだから。その自由を制限する者は効率も合理性も分かっていない無能なのだ、というわけだ。
しかしこのような技術信仰の全能感、そしてその全能感への共感の帰結は、
アウシュヴィッツのガス室である。この厚労省の元技術官僚は、アウシュヴィッツの何百万分の一であれ、同じ結論に達したのだ。
そもそも有能/無能二元論が本当に社会のために役立っているのかは怪しい。それは結局
男性マチズモの幻想に過ぎないのではないか。
有能な者を好む男性たちによって支持された安倍政権は、外交、経済、災害、新型コロナ、あらゆる領域において無能を晒し続けている。だが、擬似テクノクラートとしての虚偽意識を有している支持者にとって、それを認めることは世界観が崩れることである。したがって、アベノマスクにせよGo toにせよ北方領土交渉の失敗にせよ、あらゆる領域で無理がある擁護がみられている。
確かに、露骨な新自由主義を好むものは今や少ない。竹中平蔵は安倍政権を支持する者からも憎悪されている。しかし、新自由主義の弟たち、自己決定論と自己責任論、そして技術信仰はいまだに内面化されている。
しかし、これらは全て
虚偽意識である。もちろん虚偽意識を虚偽だと言ったところで、虚偽意識から簡単に逃れられるものではないが、とはいえ、さすがに多くの人が流石にまずいと気づく「命の選別」イデオロギーだけを撃って済むものではない。
「命の選別」に至る思考を防ぐためには、たとえば自身の商品価値を高めるために自己研鑽を積む姿勢を美徳とする価値観も撃たなければいけないだろう。
<文/北守(藤崎剛人)>