自然が壊されすぎてウイルスの居場所がなくなり、人との「距離」が近くなった

1日1日を完結させ、日々を新しい1日として生きなおし続ける

森林イメージ 軽井沢は標高1000メートルの地点にあります。  1000メートルという高さは高地トレーニングに使われる場所でもあり、人体にとって程よい場所のようです。土と空の間。海と空の間。天と地の間として。  そのため、毎日毎日、深く深く眠りにつき、泥のようになって起きています。朝起きるたびに、まるで生まれ変わっているかのように。  眠りとは、本来恐ろしいものです。なぜなら、眠って、朝に目が覚める保証は何もないからです。  赤ちゃんや子供が、眠る前にぐずったり嫌がったりすることがあります。それは、「体」が休もうとして眠りにつこうとしているとき、そのことに対して、「頭」は不安や恐れを本能的に感じ、頭が抵抗しようとしているのだと思います。  自分自身も、子ども時代にそうして意識がまどろみ、引きずり込まれるように「眠り」の世界につれていかれることが恐ろしく、眠りに抵抗していたのをよく覚えています。つまり、「眠り」とは生命システムが知恵として獲得してきた死の疑似体験のようなものなので、深い眠りによって生命は日々更新されているようなのです。  個人の生命にとって眠りが必要なように、社会というシステムにも「眠り」や休息が必要なのだと思います。そもそも、「眠り」を勘定に入れていないシステムは、自然治癒力が働く時間が取れず、壊れてしまうのだろうと思います。  生命の全体性にとっては、起きている時間だけではなく眠りの時間も同じくらい必要です。  もちろん、眠りは死の疑似体験のようなものですから、深い眠りにつくときは大きな不安に駆られるのが本来です。本当にまた目が覚めるのだろうか、昨日と今日と明日は、また同じように続いていくのだろうか、と。  ただ、眠りによって意識活動が一度分断されるからこそ、目覚めた時に心身はリフレッシュします。心身が入れ替わり、頭も入れ替わり、1日1日のけじめのように日々は更新される。毎日毎日を新しい1日として生き始めることができる自然治癒力は、生命が得た知恵であると思います。  こうしたことは、個人の生命だけではなく、社会の生命にとっても重要な意味を持つと思います。1日1日を完結させ、昨日と今日、今日と明日。日々を新しい1日として生きなおし続けるためにも。

ウイルスと人間の距離が近くなったのは、ウイルスの居場所がなくなったから

 コロナウイルスが引き起こした問題も、大事なことは「距離」の問題なのでしょう。  人と人との感染防御に関して、「social distance(社会的距離)」というものが大切にされるようになりました。人間同士の距離もそうだし、そもそも、ウイルスなど自然界にいる生き物と人間との「距離」こそが、この問題を引き起こしたきっかけだったのでしょう。  今まで、多くの人はウイルスという存在を好きでも嫌いでもなかったはずですが、多くの人が嫌悪感を持つようになったのは、ウイルスとの「距離」が近くなりすぎたためです。それはウイルス自体の問題というよりも、ウイルスと人間との距離の問題なのでしょう。  もともと、ウイルスと人、細菌と人、感染症を引き起こす生物と人とは、ある一定の「距離」をはかりながら、共生していました。  そもそも、なぜウイルスと人間との距離が近づいたのでしょうか。多くの理由が挙げられると思いますが、やはり考えるべきは居場所がなくなったからではないでしょうか。  我が家でも、雑草を刈った翌日、家の中に虫が大量に発生しました。最初は困りましたが、はたと気づきました。虫にも居場所が必要です。雑草と呼んでいる場所は、虫にとっては重要な居場所であり、居場所をすべて奪ってしまうと、彼らは居場所を求めて、時には人間の家へ、時には人間そのものへと、居場所を求めて移動せざるを得なくなる、ということなのでしょう。  どんな人にも居場所が必要であるように、その他の生命にも居場所は重要なのです。わたしたちがせっせと自然や木や森を人工空間へと変えていくと、動物も虫もウイルスにも居場所がなくなってしまいます。  ウイルスは新たな生態系を求めて人間に住まざるを得なくなります。イノシシ、クマなど動物が都市に現れると問題になってしまうように、彼らにとってもある意味では苦肉の選択なのではないだろうかと思うのです。
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壊しすぎた自然を再生して、お返しする必要がある
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