史的ルッキズム研究と題したこのコラム。
前回は、1970年代から始まる
省力化と技術集約型産業への転換が、社会全体を学校化させていったことを見てきました。大人たちが研修と学習に追われ、つねに勉強している社会。大の男が酒もたばこもやらずに、朝から読書をして、終わりのない学習を続けるのです。喫煙の規制が強化され、かわりに向精神薬が蔓延していった時代です。まるで踊り場のない階段を登り続けるように、成熟の節目のないまま老いていく。なにかをやり終えるということが困難になった時代です。
人間が何かをやり終えることが困難になった時代とは、言い換えれば、自尊心を形成することが困難になった時代ということでもあります。自尊心、誇り、自己愛、たんに自信と言ってもいいでしょう。何歳になっても若々しく振舞えるようになった現代人は、他方で、自信をもつことが難しくなった人間です。
昔の保守的な老人は、自分はすべてわかっていると言わんばかりの自信に満ちた態度をもっていました。泰然と構えることを良しとしていました。
しかし、現代の保守層はそうではありません。ネトウヨと呼ばれる新しい保守層は、慢心することがありません。レイシズムの議論になれば、われわれ日本人こそ差別されている被害者ダーと言い、極東国際軍事裁判は不当ダーとか、押し付けられた憲法ダーとか、マスコミ報道は外国人に乗っ取られているのダーとか、日本国がいかに危機的な状態にあるかを忙しくまくしたてていきました。彼らはつねに不安につきまとわれ、危機感でいっぱいで、そうあることを運動の原動力にしてきました。