「正義感の暴走」という言葉への違和感。そこには微塵も正義などない

ネットいじめ

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 『テラスハウス TOKYO 2019-2020』に出演していたプロレスラーの木村花さんが5月23日に22歳という若さで自殺した。自殺にいたった正確な原因はわかっていないが、原因のひとつとして考えられているのがSNSでのアンチコメントだ。

「正義感の暴走」という表現への違和感

 木村花さんのSNSにアンチコメントが大量発生したきっかけとなったのは、『テラスハウス TOKYO 2019-2020』出演中でのエピソードだ。木村花さんの試合用のコスチュームを男性出演者が間違って洗濯してしまい、縮んでしまったことに激怒して、男性が被っていた帽子をはね飛ばしたことから、視聴者のなかに木村花さんを誹謗中傷する人が増え始めた。  また、自殺のニュースが流れたあとに、YouTubeに自殺したことを祝福する動画がアップされていた。私も動画を確認したが、再生回数を稼ぐためなのか、倫理観が欠如しているのかわからないが、あまりに心ない動画だった。  行き過ぎた「正義の鉄槌」のような行動をしている人を「正義感の暴走」と表現する人がいるし、私もそのように表現していた。しかし、そこに「正義」なんて微塵もないのに「正義感」という言葉を用いてることに違和感を覚える。「正義感の暴走」という表現は、その人は本来正義を持っていて、それが暴走したという意味に見えてしまう。  それよりもむしろ、「偏見の暴走」や「幼稚さの暴走」と言ったほうが正しい。本来の正義とは、中立の立場で、酌量の余地も考慮しながら罰や解決への道を出す存在だ。しかし、彼らの正義は、片方の立場にしか立っていない。しかも、その人が同情できる立場にしか。

同情や感情移入が「公平さ」を左右

 人間は同情できるから味方ができるし、同情できるほうにしか味方になれない。つまり、人間にはなかなか公平に正義を行うことなんてできないのだ。  「同情」は、感情が同一になるという意味で、帽子を飛ばされるショックには同情できるのかもしれない。しかし、コスチュームが縮んでしまったショックに対して同情できる人は少ないのではないだろうか。  もし、コスチュームが縮んだという事象の抽象度を上げて、「大切なものを壊された」と捉え直して自分に適用することができれば、「仕返しに、相手の大切なものを壊さなかった木村花さんは優しい」と、このエピソードに対する解釈が変わるはずだ。  帽子を飛ばされた男性側を擁護した人が多かったのは、公平に考えてそちらを擁護するのが正義だからというわけではなく、同情できる人が多かったからだ。「服を間違って洗われて縮んだくらいで、そんなに怒る??」と思った人が多かったかもしれないが、もしかしたら、プロレスラー関係者からすると、「大切なコスチュームを着れなくされて、帽子を跳ね飛ばされた程度ですんでよかった」と、思うかもしれない。
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心理的バイアスが加速させた「ネットいじめ」
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