これからの時代に必要とされる仕事にこそ、労働の好環境や厚遇が必要なのではないか。コロナ禍でそれは明らかになってきている
コロナ禍で様々な業種がテレワークなどになったり、休業になったりしている。一方、休めない方々もたくさんいる。社会インフラを維持継続するために働く方々だ。
医療従事者、介護従事者、運送に携わる方、ごみ収集に携わる方、食品を扱う方、第一次産業従事者(農業者や漁業者など)、生活必需品を販売するお店の方、それらの生産に携わる方、などなど、ほかにもたくさんいらっしゃるに違いない。
これらの仕事は、
世界が危機に陥っている今でも絶対に必要な仕事と考えていい。人々が生きてゆくうえで欠かせない仕事だからだ。しかし、労働環境が悪かったり収入が少なかったりする職種も多い。コロナ禍の最中にあって、
こうした仕事に就く方がもっと多くの収入と良好な労働環境を得るべきだと思わないだろうか。
1968年、ニューヨーク市でゴミ収集作業員7000人がストライキをした。ふさわしい報酬や、蔑まれた待遇の改善を要求したのだ。当初は見向きもされなかったストライキだが、その9日後に街はゴミだらけになった。社会的損失が極度に達し、ついに要求は受け入れられた。
現在、ニューヨーク市のゴミ収集作業員は平均より高報酬の「尊い仕事」となっている。
なくなっても問題ない、なくなったほうがいい仕事もある
カネを動かすだけの仕事が賞賛されたり憧れられたりしているが、それこそ「ブルシット・ジョブ」だ。人類にとって「虚」しい「業」であり、かねてから「虚業」と呼ばれてきた
さて、裏返して考えてみよう。人々が生きていくうえで欠かせない仕事以外は、
「過分な仕事」と考えることもできる。世の中に必要不可欠でない仕事が幅を効かせるようになってしまったのが、今の経済社会だ。
なくなったとしても、世界が貧しくなったり、街が汚くなったり、生活環境が酷くなることがないような仕事が多い。もっと言えば、なくなったほうが世の中が良くなる仕事もある。
誤解を恐れずに言えば、例えば○○コンサルタントとか○○アドバイザーといった仕事など、実際にモノを作ったりサービスを提供している人よりもはるかに給料がいい職種の人々……、それらの仕事が本気でなくなってもいいと思っているわけではないが、
「なくてはならないものか?」と聞かれたら疑問が残る。武器製造などに関わる仕事は、どんな屁理屈をつけてもまったく必要がない。
役職という面から見ても、巨大企業の経営陣や経営コンサルティングや中間管理職がいなくなっても、サービスやモノを生み出す現場のほうが必要だ。
口と指示だけしか出さない人ほど著しい高収入というのも、オカシイと思わないか?
彼らのおかげでものごとが改善することも多々ある一方、彼らがいることでものごとが複雑で厄介になることもある。もっと言えば、
わざわざ複雑にすることで彼らの存在意義と役割を無理繰り作り出しているとも言えるかもしれない。
また、1人の仕事の中でも、1日8時間を費やす必要のない仕事があるかもしれないし、上司が残業するから帰れずに仕事しているフリをしなければならないこともあるだろう。上司や経営陣が降ろしてくる理不尽に時間と労力を取られて、顧客に向けるべき仕事ができない場合もあるだろう。
社会人類学者のデヴィッド・グレーバーは、そういう仕事を
「ブルシット・ジョブ」と名づけた。「ブルシット」の訳は「牛の糞」。要は
「クソくだらない仕事」という意味だ。牛にも糞(土に落ちて大地を肥やす存在)にも失礼だが、皮肉った表現とすれば非常におもしろい。