「絵」の力で仲間を励まし、戦い続ける入管被収容者。収容所内の非常で劣悪な現状を訴える

震災で人生が狂ったペニャさん

ペニャ

ペニャさんが若き日、料理コンテストで金メダルをもらった時の自画像

 ペニャさんが日本へ来たのは1995年のことだった。チリの情勢に危険を感じていたペニャさんは、まずヨーロッパに来ていた。ペニャさんはヨーロッパでたまたまま知り合った日本人がいた。日本人は日本でチリ料理店を経営していた。  しかし調理人が足りなくて困っている様子だった。チリにいた学生時代に調理師の資格を持っていたペニャさんは、その日本人と意気投合した。ぜひ日本へ来て、自分の店で働いてほしいという誘いに喜んでペニャさんは応じた。  それからオーナーのもとビザを更新しながら15年も同じ店で働き続けた。しかし、2011年に起きた東日本大震災3.11が彼の運命を狂わせてしまった。保証人であったオーナー夫婦が原発を危惧して国外へ避難してしまい、そのまま海外へ永住してしまったのだった。急に保証人を失ったペニャさんは何度も入管に出向き相談したが「新しい保証人を探してください」と親身に取り合ってはもらえなかった。 「3.11の直後だったから職員も忙しくて、それどころではなかったのだろう」と職員を気遣う面も見せる。  しかし、ついに在留資格を失いオーバースティになってしまった。同年7月に一度目の収容となってしまった。2年と18日も収容施設で過ごし、やっと外に出られたが、2017年10月、難民申請が却下され2度目の収容となる。そして現在、すでに2年5か月も収容されている。

職員によるイジメや勝手に変えられるルールをやめてほしい

 いつも冷静で大人しい彼だが「一度だけハンストをしました。仮放免のことだけじゃない、職員のイジメ、職員によって変わるルール、職員により勝手に決められるルールをやめてほしかった」と語る。  デニズさんの絵に関しては「それは優しい担当さんがいて、その人に様子を聞きながら再現しました。料理の勉強はしたけど、絵の勉強はしたことがありません」  デニズさんはペニャさんの描いた絵について「ピッタリです」と感想を述べていた。  その後、デニズさんは3回目の仮放免が許可をされ、外に出ることができたが、これから先どうなるのかはわからない。デニズさんは収容をされなければ、ここまで病気になることはなかっただろう。今回、命こそは落とさなかったが、健康は元に戻るのだろうか。  デニズさんのように限りある人生を意味もなく破壊され、命ギリギリまで追い詰められている外国人はまだまだ地獄の収容施設には大勢いる。  デニズさんやペニャさんは本当にここまで収容されなければならない人であっただろうか。なぜ彼らをこんな残酷な目に合わせるのか、それに答えられる入管関係者はどこにもいないのである。 <文/織田朝日>
おだあさひ●Twitter ID:@freeasahi。外国人支援団体「編む夢企画」主宰。著書に『となりの難民――日本が認めない99%の人たちのSOS』(旬報社)など。入管収容所の実態をマンガで描いた『ある日の入管』(扶桑社)を2月28日に上梓。
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