「ターフ」論争再考。トランスジェンダー排除という「差別」に抗うために。

物議を呼んだ千田論文「『女』の境界線を引きなおす」

現代思想臨時創刊号 『現代思想2020年3月臨時創刊号』(青土社)に掲載された、千田有紀氏による「『女』の境界線を引きなおす 『ターフ』をめぐる対立を超えて」がネット上で賛否両論を得ている。  2018年7月にお茶の水女子大学がトランス女性を受け入れることが話題になったのは記憶にまだ新しいはずだ。特に、ジェンダーやセクシュアリティに関心があれば、このお茶の水女子大学の判断が革新的な一歩だと感嘆した人も多いはずだ。  ここで用語の説明をしなければならない。ここで用語の説明をすることはとても重要なことであり、それを踏まえずにジェンダーの話をすることはとても危険で誤った認識を招く危険がある。  今回議論になっているトランスと呼ばれる人々は、トランスジェンダーの人の事だ。生まれた持った生物学的身体と自己の性自認が著しく反する人の事を言う。  トランスジェンダーとは、それ自体が色々な意味を包含する「アンブレラターム」であり、必ずしも1つの定義があるものではない。この中には、性別適合手術を行う人、行わない人(もちろんこれは当事者の意思によるものあるが、各国による医療的インフラ・医療費の高額さによるものもある)、両性、無性、中性と言った既存のジェンダーの枠組みに収まることができない人の事を指す。  また、性別に関する遺伝子の構成が一様であり、生まれつき中性的なインターセックスと呼ばれる人もいる。千田氏が一例としてあげていた南アフリカの元陸上選手キャスター・セメンヤ氏もテストステロン(男性ホルモン)が通常の三倍、両性具有と診断されている。しかし、当の本人が「女性」として生きている限り、それは他人からどうこう言われる筋合いはない。  ここで重要なのはトランスジェンダーである、という事は性的指向を指すものではなく自己の性自認だ。それは「自由」に「選択」されたものではない。クロスドレッサー、または異性装と呼ばれるのは、それ自体によってある種の快感を得ることが目的とされる。故に、一見同じ様に見えてしまうトランスジェンダーと異性装は全く別物である。この点を認識していない議論が昨今、ネット上で散見される。  生物学的男女によるジェンダー規範が未だ蔓延しているこの社会の中で、トランスジェンダーとして生きる事は、苦労を伴うものである。これは程度の差はあれど、如何なる社会的マイノリティにも共通するものである。

シス女性による「差別」

 ここで重要なのは、今回の議論はシス女性とトランス女性間の「対立」の話ではなくシス女性✴︎によるトランス女性への「差別」の話である、と言う事だ。 〈✴︎ 生まれたときに割り当てられた性別と性同一性が一致し、それに従って生きる人。シス・ジェンダー〉  ターフ(TERF: Trans-exclusionary radical feminist)とは、もちろん千田氏の論考の中でもしっかりと定義はされていたが、現在ではトランス女性を排除しようとする過激派のフェミニストの事を指す。  簡単に言うと、「生まれも持った性別が女性」ではないと女性として認めない、仲間として認めない、人たちである。  ここでよくネット界隈で論争に上がるのは、公衆トイレや浴場の問題だ。ターフの人たちの意見として「(男性器を持つ・持たないは別として「想起」させる)トランス女性とトイレ・更衣室を共有するのは嫌だ」と言うものがある。また、「『トランス女性』と称してこのような場所に出入りし性犯罪を犯す可能性も」と。正直、目が点になるような論点だ。  まず、女子トイレは基本的に個室トイレのプライベートな空間だ。ここでトランス女性を迎え入れると、女装した輩が女子トイレに入って性暴力を振るうとか、女装した人が盗撮機を設置するみたいなことを危惧する、という議論があるが、それはジェンダーではなく、「性犯罪」が問題だ。また、如何なるジェンダーでも基本的には加害者になりうる。また、「男性性」と「加害性」を無意識にイコールで結びつけているところも問題だ。  このような問題は、多くの公共の施設で、男女で分けるのではなく、すべてのトイレを個室にする事・更衣室に試着室のような仕切りのある空間を用意する事で大体は収まる筈だ。「性犯罪」の可能性を懸念するのであれば、それはもうジェンダーの話ではなく、社会的倫理観の育成の話だ。  「ペニスのついた(性別適合手術前の)トランス女性が女風呂に入ってくる」と言う暴論も極端で、それは当事者の心情を無視した欺瞞でしかない。多くのトランス当事者はこのような二項対立の男女という枠組みの中で人の何倍もの苦難を強いられている。彼らはその時々に応じて自身のアイデンティティを譲歩しながら生きている。  日本のような公衆浴場だと、文字通り真っ裸にならなくてはいけないので特異な例ではあると思うが、それが水着、もしくはそれに準じた洋服を着用し入浴という選択肢もなくはない。  筆者の住む、北ロンドンに位置する広大な公園、ハムステッド・ヒースは一年を通して泳げる池がある。女性専用・男性専用・混浴と3つの場所に別れ、ここでも女性専用池を使用するトランス女性に対するシス女性による差別が問題になった。もちろん、これ自体も日本の状況と同じくして、賛否両論の議論が湧いた。英国では2010年に施行された平等法により如何なる差別も禁じている。ゆえに、ロンドン市はトランス女性もシス女性も皆女性とし、女性専用の池を使うことができるとした。  ここでも、(なぜか英国では多い)ターフのシス女性がわざわざ男装して男性専用の池に入って抗議活動をし、物議をかもしていた。もう一度言うが、異性装とトランスであると言うことは根本的に違う。  蛇足だが、こう言う論争を散見する度に、冷戦下、1970年代の東ドイツで盛んだったヌーディストビーチがいかに平和な環境だったかを思う。共産主義的価値観の下、裸になればみんな平等という価値観がそこにはあった。
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「怖いから」なら差別にならないのか
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