一連の議論がシス女性のトランス女性差別である、と既に論じた。「シス女性は男性器が『怖い』だけで、それは『差別意識』からではない」と論じる人もいるが、
「差別意識」と言うのはそれ自体、未知なるものへの恐怖心や自身の知識や経験外の「何か」に対して社会的秩序・線引きに基づいた自身の存在が危機感を感じることである、とブルガリア・フランス人精神分析学者ジュリア・クリステヴァは論じる。
つまり、シス女性がペニスの有無にかかわらずペニスを想起させるトランス女性を「怖い」と感じるのはシス女性自身が既にトランス女性を「女性」とは見ていないという意味で「差別意識」を有しているという事になる。
「差別」そのものを否定しながら、「でも(トランス女性は)やっぱり違うから別にしてね」というのは欺瞞である。フェミニズムは女性のためのイデオロギーでは無かったのか。
とは言いつつも、逆に千田氏が論じるようにターフを探して彼女らを弾圧し、極端な例ではあるが、暴力的行為に走るのはもっての外だ。それそれで「逆差別」となるだろう。
ゆえに、この「差別」問題というものはとても厄介だ。
「何が・誰が正しいか」ではなく「どのように共感し合うか」
これは別にトランス問題に限ったことでは無い。性差別、人種、階級、身体障害、年齢、色々なところでこの問題は顕在化される。特に昨今のリベラル的なポリティカル・コレクトネス(政治的に中立的な発言や表現が重視されること)の時代、その副作用として様々な人が自身の「正義」を振りかざして戦っているように見える。
筆者も自身の勉強の一環として社会問題系のセミナーや勉強会に頻繁に足を運ぶのだが、基本的に議論は何処に行っても堂々巡りのような印象を受ける(もちろん中には素晴らしく啓蒙的なものある)。意見の交換、建設的な議論の構築のために場所を設けているにも関わらず、エゴの対立ばかりでまるで陳腐な喧嘩のように見えてしまう場面も少なくは無い。
ここからはあくまでも筆者の考えであることを前置きしておきたい。
ここで大事なのは、人は皆何らかの「差別意識」を持っている、という事だ。たとえある特定の帰属意識(人種・出身地・性別・年齢等)を他人と共有していたとしても他人は他人である。二人以上人間がいたら既に差異はそこに存在しているわけだ。
それが固定のグループの人々に向けて偏見(それはそのグループに対する無知やそれに由来する恐怖感からくることもある)を基に心ない態度を向けるようになると「差別」になるわけだから、実は「差別」と言うのはとても流動的でまるで「差別」をしないで生活すると言うのは地雷だらけの土地を歩くようなものである。
また、「差別意識」と言うのは自身のエゴ中心的な無意識から作用している。前述した通り、自身の社会的秩序・線引きに基づいた自身の存在が危機感を感じることである。よって「ペニスが怖いから」と言う自己中心的な論法に陥ってしまうのだ。
このような「差別」問題を考えたときに、
「何が・誰が正しいか」を問うのではなく「どのように共感し合うか」に重きをおいた思考法が解決策の一つなのでは無いだろうか。
アメリカの倫理心理学者のキャロル・ギリガンは男性的な正義や義務に依拠する倫理観に対し女性的な共感や同情による倫理観、ケアの倫理を提唱した。もちろんこの男女性で分けられた二項対立は物議をかもす。女性が感情的で男性が理性的という理論はフェミニストから既存の女性像の再生産だ、と批判された。
しかし、ここで留意したいのは共感・同情による倫理観の構築だ。例え男女で得意不得意があろうとなかろうと(というかこのような議論はどうでもいい)、
ケア倫理観というのは今の飽和したポリティカル・コレクトネスの時代に何らかのヒントをくれるので無いのだろうか。
相手の立場を想像し、その立場に自分を置き換えて物事を考えてみる。誰しもが子供の時に学校教育の中で教わった事だ。実はこんな基本的なことなのだが、実際日々の行動に移そうとするとその難しさ・自分の自己中心さに驚かざるを得ないだろう。
しかし、このケアの倫理を念頭に置いて互いに意見が異なる人・グループ同士歩み寄ってみてはどうか。そこから本当の意味での多様性を認める社会への構築が動き出すだろう。
最後に、筆者が以前訪問したヴィクトリア・アルバート美術館での社会運動の展示で見つけたメッセージを紹介したい。
「
ただ助けに来ただけなのなら帰っていい。ただ、あなたが私の苦悩をあなたの苦悩として考えてくれるのだとしたら一緒に分かちあっていけるだろう」(1970年代 濠アボリジニ解放運動グループ)
【参考文献】
Gilligan, C. (1982). In a different voice: psychological theory and women’s development. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press.
Kristeva, J. (1982). Powers of Horror: An Essay on Abjection. New York: Columbia University Press.
Lyon, R. (2019). “Let Caster Semenya run”. Spiked. https://www.spiked-online.com/2019/05/02/let-caster-semenya-run/: Retrieved 23 March 2020
Topping, A (2018) Debate over inclusion of trans women in women-only spaces intensifies, the Guardian https://www.theguardian.com/world/2018/feb/09/debate-over-inclusion-of-trans-women-in-women-only-spaces-intensifies: Retrieved 23 March 2020
Tronto, Joan C. (2012). “Partiality based on relational responsibilities: another approach to global ethics”. Ethics and Social Welfare, special issue: Gender Justice (Taylor & Francis) 6 (3): 303-316.
千田有紀 「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」『現代思想』p.246 – p.256 2020年3月臨時増刊号
<文/小高麻衣子>
ロンドン大学東洋アフリカ研究学院人類学・社会学PhD在籍。ジェンダー・メディアという視点からポルノ・スタディーズを推進し、女性の性のあり方について考える若手研究者。