私鉄と地下鉄の相互直通運転はいかにして実現したのか? 日比谷線の誕生と私鉄の都心延伸計画<東京地下鉄100年史>

都市交通審議会による地下鉄整備計画

 都市交通審議会は、既存の地下鉄整備計画を見直し、東京の実情にあった形に改めた。当時の計画は、戦後直後の1946年に戦災復興計画の一環として策定されたものだったが、これを整理して現在の路線網の原型が作られた。 路線図03 この計画では、1号線から5号線までの5路線が策定されたが、この番号は計画された順番を示すものではない。戦前に開業した銀座線が3号線、池袋~東京間で営業を開始し、東京~新宿間で建設が進められていた丸ノ内線が4号線となっているのは、都心から放射状に伸びる各路線に対し、南から順番に番号を振ったためである。    丸ノ内線に続いて建設されることになったのが、東京都による初めての地下鉄、都営1号線(現在の浅草線)と、営団地下鉄(現在の東京メトロ)による営団2号線「日比谷線」であった。  そして、これらの路線は私鉄の都心直通構想を受け入れる形で、私鉄と地下鉄の相互直通運転を実施することとした。浅草線は京成と京急の直通運転構想を引き継いで、また日比谷線は東武と東急の都心乗り入れ構想を合体させて形作られた路線だ(一方、小田急の都心乗り入れ実現は千代田線の建設を待たねばならなかった)。

最新の安全設備を導入した日比谷線の全通

 日比谷線は1959年に南千住~仲御徒町駅間で着工し、早くも2年後の1961年3月に同区間が開業している。その後、1964年東京オリンピックに向けて急ピッチで工事が進み、1964年8月に北千住から中目黒までが全通した。  日比谷線の特徴は、これまでの地下鉄とは異なる最新の安全設備を導入した点にある。それまでの銀座線、丸ノ内線、浅草線は「ATS(自動列車停止装置)」と呼ばれる、信号無視や速度超過をチェックする安全装置を採用していたが、日比谷線では新幹線に先駆けて、常時速度をチェックし、自動的にブレーキをかける「ATC(自動列車制御装置)」を導入した。日本で初めてATSを導入した銀座線に引き続き、日本で初めてATCを導入した路線が日比谷線である。  先進的な安全装置が地下鉄から導入されるのは、暗く、見通しの悪いトンネルを走行し、また万が一の事故時にはトンネル外への避難が困難である地下鉄では、何よりもまず事故の未然防止が重要だからである。  日比谷線は営団地下鉄にとって新時代を象徴する路線となり、こうした技術は続いて開業する東西線にも引き継がれることになった。 <文/枝久保達也>
鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。
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