「子ども、もらってくれませんか?」 出産をめぐって揺れる女性たちを描く『犬のかたちをしているもの』

揺るぎない愛の対象としてのロクジロウ

 もうひとつ、この作中で重要な位置にあるものがタイトルにもある「犬」の存在である。作中惑い続ける「わたし」にとって、唯一揺るがないものが、かつて飼っていたロクジロウという犬へ抱いた強い愛情であり、逆に言えばその確かさはその他の不確かなものたちの間で「わたし」が揺らぎ続ける原因になっているとも言える。  郁也に対する「わたし」の愛情は、ロクジロウへ抱いていた愛情ほど強い確信を抱くことができない。セックスや妊娠し出産することが、男への愛の証明なのだとしたら、「わたし」はその可能性を病気によってはく奪されている。肉体的なつながりから遠ざかりつつある「わたし」はより精神的な結びつきを強く求め、そのたびにこのかつて飼っていた犬、ロクジロウが現れる。ロクジロウの不在によって、「わたし」には確かな愛が「犬のかたち」をした穴として残る。「わたし」にとって「犬のかたちをしているもの」が確信的なものなだけに、不確かなものの間で生きる人々に対するある種の不信が強くなっていく。

子どものかたちをしているもの

 本作の非現実的な面を批判することは簡単だと思う。郁也という男の情けなさや、無責任さもあまりに目立ち、なぜそれでも郁也を愛そうとするのか共感することは難しい。もっと書き込むことのできた要素も多いようにも思われる。それでも、主人公が結末に向かっていく中でたどり着く言葉はとても美しい。 「わたしのほしいものは、子どもの形をしている。けど、子どもではない。子どもじゃないのに、その子の中に全部入っている」(『犬のかたちをしているもの』本文より)  この言葉の中で「わたし」は「わたし」の不可能性とはっきりと出会う。探し求めてきた「犬のかたちをしているもの」を手放そうとする。諦めとも寂しさとも悲しさとも違う何か独特の感情がこの言葉にはあるように思われる。  ニーチェは「人間が自らを神だと思わないのは、下腹部にその原因がある」と書いていた。月経、勃起、射精、妊娠、排泄、人間はいつも下腹部の起こす事態に振り回されて生きている。どんなに科学が発達し、あらゆる人権を確立させようとしても、下腹部との争いは解決できない。上半身による感情としての愛があり、下半身による行為としての愛があり、われわれはいつも引き裂かれている。  『犬のかたちをしているもの』は下腹部と向き合うひとりの女性を誠実に描いている小説だと思う。女性だけでなく、多くの男性にも一度目を通してもらいたい。 <文/市川太郎>
1989年生。立命館大学文学部卒業。劇作家、演出家。主な作品に「いつか、どこか、誰か」(GEKKEN ALT-ART SELECTION選出作)、戯曲「偽造/夏目漱石」(BeSeTo演劇祭+参加作品)、「もう、これからは何も」(アトリエ劇研演劇祭参加作品)、「愛だけが深く降りていくところ」(「自営と共在」展参加作品)など。
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