相模原事件裁判死刑判決を障害当事者はどう見たか?「守られる」障害者像からの脱出を目指して

「社会か行き倒れか」という強迫に抗う自由

 実はこの事件が最初に報じられた頃、私が真っ先に考えたのは「植松はなぜこれほど一生懸命障害者と関わりたいのだろうか、殺すのも手間であるほど価値がないとは考えないのか」ということだった。  それから障害者の生存権保障という基本的人権の問題が出てきたのも納得であった。ところがそれが「いかに社会で可能とするか」という社会的ハウトゥーの問題に移ったとき、いつのまにか「施設」という社会制度の枠組みを前提とすることで「重度障害者は社会からいかにして保護されて生きていけるのか」という問題にすり替わっていた。当然ながら、施設に閉じ込めて保護する以外にも選択肢があるはずだ。私が本稿で一番批判したいのはその点である。  この考え方はそもそも上から目線であるだけでなく、ほとんど当てずっぽうと言っていい程、雑に自明化された「正常な人間」という同型性に基づいて正当化されていると思われる。「社会が全ての人を守る」ために「施設」に収容できるようみんなが負担(税金であれ、介助であれ)をしなければいけない、でもそれを実際のところ「社会的に共有できる」(「みんな」が納得する)方法としては「いかなる健常者も障害者になり得る」という可能性のリスク論しか想定できていないのではないか。そのような「社会性」を共有できない者もいておかしくは無い。でもそのような人たちでさえ、自分たちが分かる範囲での「社会性」を頼りにせざるを得ないから、「社会のために意思疎通ができない重度心身障害者を殺そう」という話が出てくる。  だが、そんな風になるならば、本当は障害者を助けなければ良いのである。その結果、保護がなくなって障害者が「行き倒れ」になっても彼らにとってなんの不名誉があるだろう。実はそのような「行き倒れ」のリスクを健常者も障害者も直視できないところに問題がある。  「施設」にいる限り、介助者は障害者を守らなければならないし、障害者は一見安全である(実際はそうではないが)。しかしそれは、「生存権」の名の下で主張されようと、結局のところ社会的価値を盾に、「独りで生きていけないくせに」という脅迫を介助者と障害者が内面化することだ。  逆にもしも「独り暮らし」を選ぶなら、「明日の介助者はいないかもしれない=明日死ぬかもしれない」という「真実」に直面することになる。だが、障害とは、生きることを通してそれを負う本人がそのような「真実」を知り、「それにもかかわらず」(パウル・ティリッヒ)そのようにしかありえないいまを生き、生きる中でそれを超えていくことを通して現れるのではないか。その「真実」を恐れればこそ、施設に閉じ込め、社会からその脅威であるところの障害者を隠しておきたいのだ(これは「社会」を全否定することではなく、それ以外の何かを探しているのだ)。  そして私がここで提示した「行き倒れ」の「真実」は、実際のところ「現実」のある一部分を想定上強調した「仮想空間」に過ぎない。そうでないと「健常者」もまた「行き倒れ」る。そもそも「健常者」の誰であれ、全ての人に無視されるならばたとえ「言葉」という「社会性」へと方向付けられたコミュニケーション手段を持ち合わせていても、その人は行き倒れるしかないだろう。それならば、障害者も健常者も同じように「現実」を生きている限り、「障害者」だけが「施設に入るか行き倒れるか」という選択を抱えるという考え方は上から目線を超えてもはや強迫症的と言える。  だが、「現実」にはその「言葉」になる以前の心の叫びを聴こうとする誰かが必ず「世界」にはいる。それは学校の友達かもしれないし、ヘルパーのバイトに来る人かもしれないし、家族や恋人かもしれない。そしてその誰でなくとも良い。 「おれは助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!!」  これは『ONE PIECE』(10巻「第90話 何ができる」)の主人公ルフィの言葉だが、この言葉の面白みは発言が「社会常識」の意味を食い破っていくところにある。「普通」は、それは「自信」を持つところではない。「助けてもらえる」保証はどこにもないのだから。だが、ルフィはそこに「自信」、つまり「自ら(の人生)を信じる」という、個人的で自由な新たな言葉の領域を開いていく。私がここまで考えようとしたものはそういった人生を「社会」から自由にする「穴」の存在だ。その「自信」を「それにもかかわらず」生きる勇気に変えて、先が見えず荒れ放題の「人生」という「世界」に踏み出すことこそ、私は他の誰でもないあなたに思い出して欲しいと思う。それを忘れ、「社会」というあらかじめ作られたものに頼りすぎるならば、「社会性」というある種の生活基盤として前提化されて批判し難いものの前に、あらゆる「自由な個的生」への思考は阻まれてしまうだろう。それを覆して、家族や施設職員に「もういいよ、こっちは勝手に生きていきます」と叫ぶ「心失者」の自由の声がまだ見ぬだれか友のもとに届くとき、この事件の解決が訪れるだろう。そしてその声こそは「社会」よりも広くて捉えがたい「世界」へと繋がっているのかもしれない。 <文/愼允翼>
(シン・ユニ)1996年、千葉県生まれ。東京大文学部4年で哲学を専攻。厚生労働省指定難病の脊髄性筋萎縮症で電動車いす歴20年。NHK・Eテレ「ハートネットTV・B面談義」に出演。
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