福島核災害を「美談」に仕立て上げた映画『Fukushima50』が描かなかったもの

映画は、東電の責任から目を背けた

福島第一原子力発電所4号機注水車からの放水

福島第一原子力発電所4号機注水車からの放水(写真/東京電力)

 原作者の門田隆将は「福島の人たちに『日本が救われたこと』を私は描かせてもらいました」と述べている。  現場で命を懸けた福島出身の人たちが大勢いるのは事実だ。しかし、東電が事前に他社並みの対策をしておけば、そんな危ないことをする必要はそもそもなかった。「無能な東電に、命を捧げさせられた福島の人たち」というのが真の構図だろう。    映画の中で、佐藤浩市(当直長)は、渡辺謙(吉田所長)にこう問いかける。「俺たちは、何か間違ったのか」。吉田は、それに何も答えなかった。  事故の捜査をした検察幹部は、ジャーナリストの村山治の取材にこう述べている。「吉田さんはまさに、事故現場のヒーローだったが、(津波対策が議論された際に積極的に動かず)そのまま福島原発の所長になった。そして、そんなこと(巨大津波による浸水)は起こらない、と思っていたことが、そのまま次々に起きた。(津波対策をとらなかったことが)心に響かないはずがない。(対策をとらなかった当事者として)忸怩たる思いがあったから、よけいに頑張ったのではないか、という気がする」  吉田は、2012年8月、福島市で開かれた講演会にビデオ録画で登場し、以下のように述べている。 「現場に飛び込んで行ってくれた部下に、地面から菩薩が湧く地湧(じゆ)菩薩のイメージを、地獄のような状態の中で感じた。私はその後ろ姿に感謝して手を合わせていた」  部長時代に津波対策を先送りしてしまったがために、危険な現場に部下を送り込むことになった。そこに菩薩の姿を見た。その心情を全くカットしたことで、映画における吉田の描写は、とても平板になってしまったように見える。  映画は、事故の本当の姿を、現場の美談で隠してしまった。こんな単純な形で人々の記憶に残ることを、吉田も望んではいなかったのではないだろうか。(敬称略) <文/添田孝史>
サイエンスライター。1964年生まれ。大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了。1990年朝日新聞社入社。97年から原発と地震についての取材を続け、2011年に退社。以降フリーランス。東電福島原発事故の国会事故調査委員会で協力調査員として津波分野の調査を担当した。著書に『原発と大津波 警告を葬った人々』、『東電原発裁判-福島原発事故の責任を問う』 (ともに岩波新書)
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