妻でも母でも娘でもない「私を」求めてーー「Red」三島有紀子監督<映画を通して「社会」を切り取る14>

塔子が最後に選んだのは

――『幼な子われらに生まれ』(17)に続き、今回も家庭を描いていますね。 三島:『幼な子…』は、本来、居心地のよい居場所だったはずの家庭が、再婚した妻の妊娠により軋んでいくわけです。『Red』は、家庭全体を、あるひとつの価値観に支配された閉鎖的な籠の中というイメージで描いています。  塔子は、かつて愛した鞍田と出会って、家の外に出て仕事をしたり、今まで抑えていた自分らしさが見えて来て、仕事柄〝個人にとっての居心地の良い空間〟を見つめ直していきます。この映画の中の家庭は日本の「家」の象徴であり、世間でいいとされている母像や妻像を求めてくる小さな社会の象徴になります。そのため、一度外に出て働き始めてからあまり家のシーンは出てきません。心を占める割合でいえば、外にありますから。でも、子供の怪我をきっかけに、「個人」から「家」「母」「妻」に一気に連れ戻されるというように描きました。  日本人と「家」というのは、現代であってもなかなか切り離せませんよね。小さな社会である「家」や「世間」という大きな社会から離れて、まずは「個」としてのアイデンティティを見つめ直さないと、日本の文化度は成熟しないのではと思うこともあります。あなたは何者なのか?ということを問い続けたいと思うのです。そういうこともあって「家」からの解放は、日本に生きる自分にとってのひとつのテーマでもありますね。 ――ラストシーンは原作とは異なりますが、それについてお聞かせください。 三島:二人がどこを目指しているのか。それについては映画を観ていただいた皆様に、自由に想像してもらえたら。そして、誰とどこを目指して行くのか、そんなことをほんのちょっと想像するきっかけになれば嬉しいです。少なくとも塔子が選んだのは鞍田ではなく、自分だと思って描いたつもりです。誰を愛するか、何を愛するか、は「どう生きるか」という選択だと思いますから。最後に、二人は、見たかった風景を見られたのではないか、と私は思っています。
©2020『Red』製作委員会

©2020『Red』製作委員会

 鞍田が死んだ後の選択は、もちろん正しいとは思いません。ですが、いろんな人間が描かれるのが映画というものなのかなと。人間は、失敗もするし、そんな選択をしないと前に進めないこともあると思うんです。だから我々は、2020年を生きる塔子に、元の家に戻るのではなく、まずは〝自分(個)として生き始める〟ことを選択させました。ただ、選択というのは残酷なものです。選択は、誰かを深く傷つけることがある。それもきちんと描きたかったので、子供の表情も丁寧に撮っていました。自分自身も、別れのシーンを撮影した後は、いたたまれなくて子役の子を抱きしめましたが。  そして、一人の同じ人間として、子供に対して子供扱いしないで、ひとつの生き方を見せるというやり方で伝えるのは、母親である女性を描く映画としては珍しいと多くの方に言われましたし、非常に厳しくはありますが、そこも感じて頂ければ嬉しいです。

喪失の先を描いてみたい

――今後の作品はどのようなテーマを考えていますか? 三島:いろいろありますが、自分自身が年齢的に失っていくものばかりになってきたこともあり、「いろいろなものが失われていった後でも、次という未来に向かえるにはどうしたらいいのか」ということがテーマの映画は撮りたいと思っています。  ここ数年の間に、実家は解体され、友人の死も経験しました。そして、AIが発達して今後失われていく職業も多くあると言われていますよね。「何かが失われる」という状態が一気に来て、自分や世の中全体が喪失感に覆われる時がくるのかもしれない。そうなった時にどうやったら「次がある」と思えるのか、見つめたいなと思います。 ――この映画は「小さな選択に責任を持って生きているのかを問いながら作った作品」とおっしゃっていましたが、監督ご自身が映画の道を選んだのはいつだったのでしょうか? 三島:4歳の時、生まれて初めて見た映画がイギリスの『赤い靴』(監督・マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー)だったのですが、その映像の美しさと、主人公が自殺してしまうといことに衝撃を受けました。人間には、死ぬ自由もあるのかと。  また、6歳でとてもつらいことがあり、自分が生きていくことをなかなか肯定できずにいました。そんな時、映画館に行って、自分とは違う人間の人生を共有して、泣いたり笑ったり応援したり虚しさに包まれたり。映画を観ている時間が自分を救ってくれました。  そして10歳の時に観た『風と共に去りぬ』(監督・ヴィクター・フレミング)。主人公のスカーレット・オハラは、少女の頃白いワンピースを着ていますが、南北戦争や結婚離婚を繰り返して、何もかも失った時には、黒いワンピースを着ていました。  それがとてもたくましく思えて、「汚れたっていいんだ。むしろ生きることは汚れていくことなんだ」と、この世は生きる意味があると思えました。映画のエンドマークが出た時に、映画を作る人になりたいと思いました。そこが原点ですかね。  映画『Red』もぜひ、人間の細やかな表情を大スクリーンで、人間の吐息や声や2人にだけ聞こえている波音などを心に響く音響システムで、体感していただきたいです。そして、素直にいろんなことを感じてもらって、是非、いろんな方と対話してもらえたら、そこから何かが始まるのでは?と思っています。映画の灯を消さずにお待ちしています。 <取材・文/熊野雅恵> <取材場所/CozyStyle COFFEE(落合)>
くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。
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