中村哲医師個人の偉業を「日本はスゴイ」にすり替え。お別れ会で見た、アフガンと日本政府関係者の温度差

中村医師個人の偉業を「日本はスゴイ」にすり替え

お別れ会の会場

小雨が降る中、お別れ会の会場には5000人が集まった

 その後も北岡氏は、江戸時代に作られた福岡県朝倉市の山田堰にヒントを得て中村医師がアフガンの灌漑事業を進めたことに関して、「日本の素晴らしさを証明した」という趣旨の発言を展開した。  確かに、灌漑プロジェクトにはJICAも一役買っている。しかし、ここはそれを誇る場所ではない。中村医師の偉業を「日本スゴイ論」にすり替えるその論法には、誰もが閉口した。  実際、筆者がいた会場では彼の挨拶だけ誰一人として拍手もしなかった。5000人からの参列者を、そして何よりご遺族とペシャワール会の方々をいらだたせるようなことを臆面もなく言える“鈍感力”だけは感嘆に値する。  ちなみに北岡氏は、対外関係タスクフォースのメンバーを経たのち国連大使となり、その後JICAの理事長に就任して現在に至っている。このような人物が外交の全面に出て日本は大丈夫なのか、心配になるのは筆者だけではないだろう。

30年以上前から、中村医師の功績は我々に影響を与えていた

 筆者が中村医師の話を初めて直接聞いたのは、1986年のことだった。筆者と同じ西南学院中学校の出身で、帰国時に中学のチャペルでその活動について後輩の中学生にその話を聞かせてくれたのだ。  ペシャワール会の発足が1983年、中村医師がペシャワールのミッション病院に赴任したのが翌1984年。そのわずか2年後のことだった。ペシャワール会報(号外:2019年12月25日)によると、ちょうど彼がアフガン難民の治療を始めた頃である。  偉大なる大先輩の話を聞いた筆者は言葉もなく、ただただ圧倒されるだけだった。同じように、感じ入った私の同級生はその場で「俺、医者になる」と宣言した。実際、彼は医学部を卒業して勤務医を経て独立し、開業している。  筆者はといえば、その後国際関係学、哲学、平和学を学んでいくことになる。中学生時代に中村医師の話を聞いたことが筆者の背中を後押ししていることは間違いない。  それが、1986年の中学生たちに与えた影響だった。その後、中村医師はアフガニスタンで井戸を掘り始め、さらには灌漑にまでその事業を広げる。あれから30年以上、さらにどれだけ積み上げていっていたのか、想像を絶する。
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一人の命を救うことから始めた中村医師
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