スピリチュアル・シンポに続きオウムに殺された坂本弁護士を中傷する講演会まで。どうした立教大学

カルト批判を理解しないままカルト批判を批判する

 前置きが長くなったが、そんな大田氏は講演冒頭で、イギリスの哲学者ジョン・ロックの言葉を引きながら「寛容」の必要性を説き、こう語った。 「この人の宗教的な考え方は気に食わない、おかしいなあという風に思われても、それを嘲笑したり攻撃したりするのではなく、とりあえず自分に実害がないのであればぐっと我慢する。これが近代主義的な寛容の態度。しかしこれは、明らかにおかしな宗教団体に対して何も物を言わなくていいということではありません。(略)たとえば霊感商法という形である種の詐欺的な行為が行われているということに関しては、バッシングにならないように注意しながら客観的な状況として、積極的に批判的に論じていくべきだと思います」  客観的批判は、これまでカルト問題に取り組んできた人々が散々やってきている。カルトを嘲笑したりする場面があるのは「やや日刊カルト新聞」くらいのもので、カルト批判の中ではかなり異質な存在だ。 「カルト対策を言う人達の間では、カルトの問題は行動だけを見ればよくて、思想というある種厄介なところに踏み込む必要はないという態度を示す方もいるが、ぼくはそれは違っていると思う。やっぱり、一歩踏み越えた、ある種エキセントリックな行動の背景には思想や教えがあることが大半なので、それを的確に分析することが必要です」(大田氏)  カルトを批判する側が思想ではなく行動に注目するのは、カルト批判ではなく「カルト」の定義をめぐる議論にすぎない。  カルト問題への取り組みにおいては、「違法行為や人権侵害を行う集団」というカルト定義がコンセンサスとなっている。逆に、こうして定義した「カルト」の問題に取り組む上で、具体的な人権侵害行為を推奨あるいは正当化する教義への分析も批判も長らく行なわれてきた。オウム真理教にせよ統一教会にせよ、その問題を指摘し批判する脱会者やキリスト者や弁護士たちの書籍をどれか1つでも読めば明らかだ。教義の問題に言及しないケースなどないと言ってもいいくらいではないだろうか。  大田氏の主張の結論部分は目新しい話でもなく、大田氏が批判する「カルト批判」はむしろ従来から実践している内容に過ぎない。ところが、それを常に「カルト批判はそれができていないから、私がこうして提言している」かのような文脈で語る。提言の体をとった中傷だ。

矛盾する主張

 大田氏はこの講演でカルトを「反近代主義の諸幻想に駆り立てられた熱狂的集団」と定義してみせた。もちろん、批判的に捉える対象として語っている。  矛盾している。  ついさっき大田氏は「自分に実害がないのであればぐっと我慢する」という寛容の態度を説いた上で、「霊感商法という形である主の詐欺的な行為」を客観的に批判すべきと語ったばかりだ。詐欺という「行為」の存在が条件であることを自分自身で語っておきながら、大田氏のカルト定義の中には「行為」を基準とした条件が組み込まれていない。  行為ではなく思想の内容を基準に「カルト」という批判的な用語を設定すると、実害を生まない単なる脳内の思想をも「カルト」として批判することになる。この点でも、「自分に実害がないのであればぐっと我慢する」とする大田氏の主張と矛盾する。支離滅裂だ。  1980年代に統一教会による霊感商法が社会問題化してから30年以上。長年カルト問題に取り組んできた人々は、思想ではなく「違法行為や人権侵害」という行為を「カルト」の定義とすることで、思想や信教の自由を否定しないカルト批判の基本形を確立した。その上で、問題のある行為について思想・教義との関連性も指摘しながら、カルトによる人権侵害問題を世に訴えてきた。  歴史的には紆余曲折があるが現在ではこうした形でシンプルに合理的に整理された「カルト批判」の存在を、大田氏は全く知らないようだ。
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曲解と事実の歪曲だらけの坂本弁護士への「中傷」
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