野党再編の歴史から考える、立憲民主・枝野代表の「野党共闘」呼びかけの意義

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Tony / PIXTA(ピクスタ)

 立憲民主党の枝野幸男代表は12月6日、会派を共同する政党・グループに対し共闘を呼びかけました。それを受け、国民民主党や社会民主党などは、立憲民主党との具体的な調整に入りました。これについては、ジャーナリストの尾中香尚里さんが『「桜を見る会」問題の裏で進むか野党「合流」立憲民主「申し入れ」の意味を読み解く』で的確に解説されています。  本論では、野党(非自民勢力)による再編の歴史から、この呼びかけを考察します。

非自民勢力の再編から始まった平成政治史

 始まりの始まりは、1989年の参議院選挙における「連合の会」でした。日本労働組合総連合(連合)を母体として、社会党・公明党・民社党・社民連などの非自民・非共産勢力が、一致して参院選挙区に候補を擁立し、11人を当選させました。それから、野党再編の平成政治史が始まりました。  始まりの終わりは、1994年の新進党結党です。1993年の細川政権(非自民・非共産の8党派連立政権)を経て、社会党とさきがけを除く、ほとんどの連立各党派が新進党に参画しました。  第一期再編では「非自民・非共産」が、再編の旗印になりました。政治理念や目指す国家像でなく、自民党でも共産党でもない勢力を一致団結させること自体が目的でした。うたわれた政治理念は「自由、公正、友愛、共生」で、母体となった新生党、日本新党、公明党、民社党などの理念を足し合わせたものでした。  しかし、第一期再編は理念でなく、小選挙区制という選挙事情によって結集したために安定せず、すぐに第二期再編が始まりました。1996年、自民党と連立していた社会党とさきがけから飛び出した議員たちが、旧・民主党を結党しました。そして、1997年に新進党が激しい内紛によって解党し、実質的に6党派(小沢グループ、反小沢グループ、旧公明党、旧民社党など)に分裂しました。

政権交代を実現した第二期再編

 第二期再編は1998年、新・民主党の結党と、自民党・公明党・自由党の連立政権発足で決着しました。1996年に結成された旧・民主党を核にして、小沢議員と反目して新進党から分裂した各党が合流し、新・民主党になりました。一方、公明党と自由党は、自民党と連立政権を組みました。これが、現在までの自民党・公明党の連立政権の始まりです。  第二期再編では、第一期の「非自民・非共産」に加え、政治理念「民主中道」が旗印になりました。新進党が実質的に政治理念を有しなかったのに対し、新・民主党は、漸進的改良主義の中道路線としたのです。それは議論して「合意したことがいいこと」と定義される一方、合意形成が不十分だったり、議論の質が低かったり、妙な思惑が跋扈したりすれば、たちまち行き詰まってしまいます。  新・民主党は、2009年の政権獲得を実現した一方、2012年の総選挙敗北とともに、実質的に瓦解しました。第一期の新進党よりも大きな成果を上げた一方、それを継続できなかった点で失敗でした。  新・民主党は、政治理念がプラスとも、マイナスともなりました。中道という融通無碍な理念が、幅広い結集を可能にした一方、厳しい政治課題への対処を困難にしたからです。ある意味、自民党よりもまじめだった民主党政権は、党内で噴出する異論を的確に合意形成できず、まじめに取り組むほど遠心力が働く状態に陥りました。福島原発事故や財源問題などは、その典型でした。「合意したことがいいこと」という考え方が、政党ガバナンスの未熟さもあり、政権運営で求められるスピードに追いつけなかったのです。  その後、野党の分極状態がしばらく続き、2017年の希望の党騒動から第三期再編が始まりました。新・民主党は、維新の会とたもとを分かった維新の党と合同し、2016年に民進党となっていました。理念としては、中道を引き継いでいました。そこに、2017年の都議選で自派を躍進させた小池百合子都知事と、細野豪志議員ら民進党の保守系議員が、自民党に並び立つ保守政党を目指し、希望の党を結成しました。  細野議員らは、中道という曖昧な政治理念が民主党政権を失敗させたとの「反省」を有していたと考えられます。明確な政治理念は、政治課題に対応する際の「ものさし」になります。予め合意している「ものさし」に基づいての判断であれば、丁寧な合意形成を経ずとも、異論は出にくいからです。実際、希望の党の結党者(チャーターメンバー)は、党丸ごと合流しようとした民進党議員たちに対し、政策協定書という名の「踏み絵」を迫りました。
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問われる、各政党が目指すもの
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