
スパイ容疑で北朝鮮から国外追放されたオーストラリア人元留学生・アレック氏が、朝鮮で出会った人々との思い出を綴る連載スタート!
 「北朝鮮」は日本のメディアを賑わすワードの一つだが、そこからくみ取れる印象は依然として断片的だ。朝鮮人民軍の閲兵式、核弾頭、金正恩の姿――「近くても遠い国」という逆説的な言葉で表現されるこの国は一体どんな国なのか、人々の暮らしはどうなのか、我々は今だに不安なイメージを膨らませている。
 私も当初からそうした懸念を抱きながら、険しくも興味深い道程を経てきた。始まりは私の故郷であるウエストオーストラリア州のパースという都市だ。美しく、暖かい地中海的気候に満ち、住人の多くはサーフィンや水泳を楽しむ。だが私は惜しくも、それらが得意ではなかった。
 その中でも私の生まれ育ったブルクリークという区画は多文化的で、アジア人が特に多い。
 私の通ったロスモイン高等学校は約半数の学生がアジア系で、イラン、中国、台湾、マレーシア、インドネシア、タイ、シンガポール、韓国などからの移民の子供が全て揃っていた。
 彼らのおかげでロスモイン高等学校の平均成績は全州のうちトップだったし、家の近くの小さな商店街の海南鶏飯は、アジア以外の国で売られている中では最も美味しいと言えるものだった。父は英国系オーストラリア人、母は上海出身の中国人で私の家族もその風景の一つだった。
 パースはオーストラリアの他の大都市から遠く離れており、世界で最も孤立した都市という異名を持つ。つまり私は地理的に最も孤立した都市パースから、政治的に最も孤立した都市である平壌までの道程を歩んだことになる。
 そんな環境から、私は幼い頃から東アジアに強い関心を抱いていた。大学ではアジア学を選択し、日本のアニメファンでもあったため日本への短期留学を通じて日本語も覚えた。次に、中国に数年留学し中国語も習得した。
 私が北朝鮮の人と初めて接触したのは中国に留学したときだった。北朝鮮から公式に派遣されてくる留学生たちと我々は同じ寄宿舎の同じ階でともに暮らした。
 彼らの大半は他国の留学生と交流するのを避けたり恐れたりしたが、ただ一人、私の好奇心と好意に応えてくれた青年がいた。彼は私を自転車の後ろに乗せて学校まで連れて行ってくれたり(オーストラリアではこうした行為はゲイとみなされるが、彼にとっては友情の表現だったといえる)、私は彼の英語の宿題を手伝ったりした(さらに正確に言うと私が彼の代わりに宿題をした)。
 彼は親切で情が深く、私はそこで初めて北朝鮮人民の温かい心と人間味を深く知ることになった。彼はもともと金日成総合大学の学生だと言い、私はその時に未来に通うことになる大学の名を知ったのだった。