京都大学で学生処分に反対する集会が開かれる。「オルガ像処分」学生や教授が大学当局に抗議

ここで職員が北村さんを排除しに登場。学生たちが抗議して追い返す

 北村さんがここまで話したところで、今回の集会には姿を現さなかった大学職員が構内に現れた。京都大学では「学内集会規定」によって、許可のない無断の集会は禁止とされている。近年京大で行われた政治的な集会には、職員が「ただちに集会を中止して解散しなさい」と書かれたプラカードを掲げて現れるのが恒例になっている。この集会規定はレッドパージの嵐が吹き荒れた51年に制定されたもので、長らく死文化されていたが、ここ数年のあいだに再び持ち出されるようになっている。その運用が恣意的なものであることは、今回の集会が無許可であるにもかかわらず、ここで初めて大学職員が現れたことからも明らかだ。  職員がやってくると着ぐるみを着た二人の学生が北村さんを取り囲み、一旦は門前へと誘導していった。北村さんはその間も職員の排除の不当性を力の限り訴え続けた。北村さんと職員の周囲で処分反対コールが沸き起こると、職員は退却していった。出禁者の北村さんを構外へ排除するという目的を果たして職員が帰っていったと見ることもできるだろう。しかし、北村さんは職員がいなくなった後再び構内に戻り、「いくら弾圧されてもおかしいことにはおかしいと言わなくちゃいけない。一人一人が何が正しいか考えて一緒に議論、討論していきましょう」と最後までアピールをやり抜いた。

学生の実力行動と学生自治の必要性

 無期停学処分を受けた学生である北村さんが大学構内に入って発言するという行動は、本来なら大学当局によって禁止されている。そうした意味で職員の行動は大学当局の側から見れば「正当性」を持つものであり、大学当局が職員にいつも行わせている「職務」の一つだ。しかし、北村さんが敢えてそうしたのは、大学当局が下した無期停学処分の異常さと職員に課している「職務」の不当性を訴えるための実力行動が必要だと考えたからだ。  ルール自体の不当性を告発するため、敢えてそのルールを破る実力行動の是非については、疑問を感じる人もいることと思う。実力行動に出た集会の主催者側と北村さんに対してもさまざまな意見があるだろう。しかし、例えば実力行動は今の香港で逃亡犯条例に反対するデモ隊の基本的な路線となっている。今年11月24日に行われた区議会議員選挙では香港政府・中国政府に対して「五大要求」を掲げていた民主派が圧勝し、その行動が大衆的な支持を得ていることを示した。当選者の中にはデモの先頭に立ってきた若者たちもいた。こうした実力行動を頭ごなしに否定するのではなく、北村さんの言うように一人一人その是非について考え、他の人と議論することが重要だと思う。  今回の集会に至るまでには現にそのような場が何度も設けられた。筆者も集会の主催団体である「熊野寮生3名無期停学撤回集会」実行委員会の会議に参加し、今回の集会が作り上げられていく過程を目の当たりにしたが、さまざまな立場の学生たちが意見を出し合い、集会をどういう方向に持っていくかについて討論が重ねられていった。今回の集会で学生たちが大学当局を批判したのは、大学と学生とのあいだにそのような対話の場を設けることを拒否し、立場が違うどころか大学当局よりも弱い立場にある学生に一方的に決定を押し付ける在り方が横暴かつ卑劣だからだ。  集会の最初に発言した学生は、「昔も今も、学生の力によって学内の問題は解決されてきた。そしてこれからもそうだと僕は思っています」「学内全体の場を扱うための場を作っていくことが必要です」と述べた。一人一人の学生の力でできることはごく狭い範囲に限られているが、学生が団結すれば強い力となり、大学の意志決定を動かすことができるのだ。かつてはそのような団体がどの大学にも存在し、自治会という名で呼ばれてきた。今こそ学生自治の復権が求められているのではないか。全学自治会という形になるかどうかはまだ未定だが、今回の集会を企画・主催した学生たちは今後も学内問題の解決に取り組み議論するための集まりとして方向を模索してゆくつもりだという。  私は以下のように訴えたい。京大以外の大学で何も問題が起こっていないかといえば、決してそんなことはないはずだ。今の大学のキャンパスの中をよく見まわしてみると、「敷地内での注意事項」などとして、キャンパスで禁止された行為が何か条にもわたって書き記された条文が見られる。しかし、大学当局からのそうした管理は果たして本当に正しいといえるのだろうか。  私は、今の学生はガラス張りの虫かごで飼われる虫のような存在になってしまっているように思う。その中でじっとうずくまり動こうとしない限りは、四方をガラスで囲まれ、制限・管理された現実が見えてこない。或いはそれが見えたところで動こうとしない自分には無関係な事柄に映るだろう。しかし、自由を制限された状況に対して行動することを諦めてしまえば、それはさらに狭められ、いつかはその中で押し潰されてしまうだろう。そうなる前に行動しなければならない。  学生は大学という虫かごの中で、押し潰されることを選ぶ、都合の良い、おとなしい虫であるよりも、最後までその中で足掻き続け、自由を求めて最後まで抵抗する見苦しい虫であるべきだと私は思う。一匹だけで自由を夢想したところで、それは虚しい試みに終わってしまうだろう。しかし、大勢で団結して立ち向かえば、ガラス張りの硬い壁も打ち破ることができるはずだ。今回の京大での集会で示された学生の力は、そのような団結の力であったはずだ。 <取材・文/鈴木翔大>
早稲田大学在学。労働問題に関心を持ち、執筆活動を行う。
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