JCO臨界事故の悲劇から20年。改めて振り返る事故の概要と要因

“決死隊”による水抜き作戦

 作業では2人1組となり、前の組が作業現場から戻ってきたら次の組が作業現場に向かうという、リレー方式が採られた。1組あたりの作業時間は1~2分間と、非常に短く制限された。このような作業方法は、放射線量率の高い現場で作業を行う場合に、1人あたりの被ばく量をなるべく少なく抑える方法としてよく用いられるものである。  さて、その“現場”である。作業現場となったのは「冷却塔」と呼ばれる装置から伸びる配管である。冷却塔は屋外に置かれているが、そこから伸びる配管は転換試験棟内に入り、すぐ近くの沈殿槽につながっている。そして、沈殿槽の周囲にある水は、この配管を伝わって沈殿槽と冷却塔の間を行ったり来たりしている。したがって、何らかの方法でこの配管から水を流し出すことができれば、沈殿槽の中の水を抜くことができるはずなのだ。  ところが、現場は沈殿槽のすぐ近く(およそ3 m前後とされる)であり、放射線量が極めて高いことが予想された。直近の周辺測定では、沈殿槽から約35 m地点で中性子線が10 mSv/h、15 m地点でガンマ線が20 mSv/hとなり、ともに測定できる上限に達した。それ以上に近づいた場合の線量率は、もはや推定するほかなかった。現場での1組あたりの作業時間は、2分間までと決められた。

未明に開始された作戦

 10月1日の2時35分、水抜き作戦が開始された。1組目が現場に入ると、予想よりも早く線量計のアラームが鳴り始めた。2人の作業者は現場の写真を3枚撮っただけで戻ってきたが、予想よりもだいぶ多い被ばくを受けていた。そのため、作業時間をさらに短くするなどの作戦変更が余儀なくされた。現場での作業時間は1分間までに短縮された。そして作業が再開された。  水を抜く作業は3段階で行われた。まず、配管に付いている排水弁を開けることが試された。この作業には3組目で成功したが、弁からの水の抜けが非常に悪く、臨界は収まらなかった。ついで、冷却塔の下部に有った排水用の配管を壊すことが試された。5組目がこれに成功し、水が流れ出たことと放射線量が幾分低下したことが確認されたが、それでもなお、臨界は収まらなかった。沈殿槽の周囲にある水は流れ出しきっていなかったのだ。  そこで、3つ目の方法が試された。配管からガス(反応性の極めて低いアルゴンガスが使われた)を流し込み、沈殿槽内の水を押し出そうという方法だ。この作戦の実現のために先ず、6組目が配管の一部(継手)を緩める作業を行い、7組目がそれを外して持ち帰った。その継手にはホースを繋げる細工が施された。  8組目は配管途中のフランジを緩め、水が漏れ出すようにした。漏れ出す水は生暖かかったらしい。9組目がホースの繋げられた継手を現場の配管につなぎ戻し、ホースをアルゴンボンベが置かれた40 m先までのばした。最後に、10組目がボンベを操作し、アルゴンガスを流し込んだ。  作戦は成功した。緩めておいたフランジ部から水が勢いよく噴き出した。放射線量率が急速に低下し、6時14分、ついに臨界の終息が確認された。臨界の発生から20時間近くが経っていた。その後、8時30分ごろには再臨界を防ぐためのホウ酸水が沈殿槽に注がれ、臨界の終息がより確かなものとされた。このホウ酸水の注入作業はJCOと核燃料サイクル開発機構が協力して行った。このようにして、臨界は完全停止した。  16時30分ごろ、茨城県知事が10 km圏内(350 m圏内は除く)の屋内退避の解除を発表。翌日(10月2日)の18時30分には、東海村が350 m圏内の避難を解除した。
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3つの事故原因
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