yakiniku / PIXTA(ピクスタ)
本当に強い企業はライバルを潰さない。なぜなら、ライバルがいなくなりひとり勝ちとなると現状に甘んじイノベーションへの意欲が衰える危険性があるからだ。
ナンバーワンが自分を乗り越えていくためにも実は強いライバルが存在した方がいい。
一流企業はライバルとなる競争相手の力をも借りて成長を続ける。緊張感がある環境は奢りや堕落に溺れる隙を与えない。こうして強いものが不断の努力をするからこそ、その比較優位は揺るがない。これは最強のアスリートには最強のライバルがいて、常に切磋琢磨して新たな高みに到達していくのと似ている。
今の日本の社会の閉塞感は、政治が多くの国民に未来の希望を示せないところから来ている。その絶望は現状に不満でも与党に託すしか選択肢がないと思う有権者が多いこと、もっというと権力者の強敵になるようなライバルがないところから生まれているのだろう。
国論を揺るがす強烈な法案を半ば強行に次々と成立させただけでない。
公文書の改ざん、隠蔽、国会軽視、疑惑や不祥事、耳を疑う問題発言が次々と与党議員から出てきても、もはや引責辞任も明確な謝罪も無くなってしまった。何でも許され黙認されてしまう。全てはうやむやのうちに放置され、時間が経ちメディアも取り上げなくなり、人々の記憶からも忘れ去られて終わってしまう。そういう状態をおかしいな?と思いつつも社会全体が受け入れてしまっている。それが今の日本だ。
しかし、つい10年ほど前なら、この6年で起きた数々の不祥事は野党からだけでなくメディアからももっと激しい追求があったものばかりだ。それを可能にしてのは与党といえども一枚岩でなかったからだ。
かつての与党には常に
強い反主流派がいて権力の奪取を虎視眈々と狙うものだった。ライバルを追い落とすためなら情報のリークさえもして蹴落としてやろうとするものがいたものだ。これが政治と行政に常にギリギリの緊張感を生み、自由な報道と言論も担保した。
もちろん10年くらい前までも、起きた不祥事の決着の流れを思い起こせば、最終的に引責辞任に追い込まれた場合でも、それは即日即決ということは少なかった。当事者本人はギリギリまで自らの地位にしがみつこうとしたし、言い逃れで切り抜けようともした。しかし、言い訳が世間の風向きを変えることができないことを悟って、これは無理だ、むしろいま辞めたほうが得になると辞めただけだ。権力者も、このまま責任を取らせないと、火の粉が自らにも降りかかると判断した時に引導を渡した。厳しい世論も党内にも無視できないライバルがいたからだ。
かつてと違って居座る人が多いのは、責任を取らせなくても、政権基盤が揺るがないと判断されているからに他ならない。