日本は「民主主義」なのか? この時代に生きる我々がすべきこと

日本は一党独裁体制ではないし、独裁体制でもない

 翻って、日本はどうか。中日新聞の名物記者である望月衣塑子記者は、多少は質問機会を与えられないことがあるにせよ、別に生命の危険があるわけではない。本も、出版されている。政権側にとって大きな痛手となった、森友・加計学園の問題についても日本のマスメディアは報道することができた。  この一点だけをとっても、日本は絶対に一党独裁体制ではない。この点は、いくら強調しても強調しすぎるということはない。というのも、今の政治に残された利点や美点を完全に無視して、その問題点ばかりを指摘するならば、我々が獲得し、まだなんとか維持している様々な自由を失う契機になりかねないと考えるからである。  筆者の念頭にあるのは、イタリアの知識人たちである。イタリアにムッソリーニが登場し、ファシズム体制が打ち立てられようとしていたころ、それ以前の議会主義を激しく批判していた知識人たちは、次のような悔恨を表明せざるを得なかった。 「率直にいおう。ある感慨をもってわれわれは、一つの政治形態の葬儀に参列している。議会政治に哀悼の辞を述べる者が、まさか私自身になろうとは思ってもいなかったからである……議会に対し常に厳しい態度で臨んできたこの私が、今日、議会の消滅を嘆き悲しむ役割を負わされている。……しかし、心からいうことができる。議会政治のほうがはるかによかったと」(モスカによるイタリア上院における最後の演説、1925年)  また別の者は次のように語った。「イタリアが多大の犠牲をはらい、そして彼の世代の人びとが、永遠に獲得したと思っていた自由が、イタリアから奪われるということが起こりえようとは、夢にも考えていなかった」(クローチェ)(ダール、ロバート・A『ポリアーキー』高畠通敏・前田脩訳、岩波書店、2014年)  その意味では、例えば政治学者の中野晃一氏が岩波書店の雑誌『世界』に掲載した論文などは、行き過ぎた批判だと思われる(「見過ごされる「ポピュリストなき独裁」」『世界』2019年4月号)。というのは、中野氏は、1955年に成立した自民党と社会党を基調とする1955年体制の下の日本も、民主主義ではなかったと言うからである。しかし、1955年以来ずっと日本が民主主義体制ではなかったという中野氏の議論には、政治学者の大多数は同意しないだろう。  アメリカ合衆国のCIAが自民党を財政的に援助したことや、公安警察をはじめとする治安情報機関が、左翼勢力の監視と抑圧を行ったのも確かだが、それでも、1993~1994年そして2009年から2012年まで、自民党が政権を失ったことからわかるように、与野党間の競争は(もちろん多少の歪みはあっても)、民主主義体制ではないと言えるほどには歪められていなかった筈だ。

危惧すべきこと

 もちろん、安倍政権の下で、言論の自由を制約するためとしか考えられない動きが見られたことは、確かである。先ほど、森友学園・加計学園問題に関して、マスメディアは報道したと述べた。しかし、森友学園問題を報じたNHKの記者はその後、更迭された(相澤冬樹『安倍官邸vs.NHK』、文藝春秋、2018年)。批判的報道に対するこうした報復的人事は、「多様な情報源」という我々の基本的な権利を奪うものに違いない。  また、研究を生業としている身としては、衆議院議員の杉田水脈氏による「科研費」批判も無視できない。科研費とは「科学研究費助成」のことで、日本学術振興会という独立行政法人を通して、大学などに所属する研究者に与えられる助成金のことである。昨今の文教政策の変化によって、研究者はこの科研費を受給しなければ研究を継続するのが難しくなるばかりか、科研費を獲得することが大学等の組織内で評価されるようになっている。科研費を取れなければ、大学で肩身が狭くなるのである。そのため、科研費を取れるかどうかは研究者にとって極めて重要になっている。  杉田水脈氏は、2018年3月半ばから突如、この科研費に対する批判を始めた。あわせて、科研費のデータベースの検索を、ツイッター上で促した。この科研費の採択は、4月1日に発表されるため、これに合わせて特定の研究者を批判しようとしたのだと考えられる(杉田水脈2018年3月18日、2019年7月17日アクセス確認)。  もちろん、杉田水脈氏は、政治家として駆け出しである。そうした政治家がSNS上で何を言おうとも、歯牙にもかける必要はないと思われるかもしれない。ただし、科研費に対する批判を行い、ツイッター等のSNS上で話題になれば、ネットメディアに報じられるだろうし、最終的には新聞や雑誌、TVのようなマスメディアで取り上げられる。その場合の、研究者に対する委縮効果は無視できないだろう。とはいえ、杉田水脈氏はその後、MBSのドキュメンタリー番組の取材に応えて、「科研費は詳しくないので答えられない」と回答しているなど、態度を軟化させてはいる。  それだけではない。科研費批判とほぼ同時期、2018年1月ごろ、政権に対して極めて批判的な山口二郎氏の授業風景を隠し撮りし、SNSを通じて拡散を試みた事例もあった(2018年1月22日。2019年3月18日アクセス確認)。インターネットに拡散された画像を見る限り、授業を利用して根拠の薄弱な政権批判を行う山口氏には、批判されて仕方のないところがあると筆者も考える一方、授業内容をSNSにアップする形での授業批判が常態化すれば、大学教育の現場での委縮効果は無視できないだろう。先ほど書いたシンガポールを思い出して欲しい。  また、これもほぼ同じ時期、2018年2月16日、内閣府・知的財産戦略本部で、海賊版サイトへのブロッキング問題を扱った検証・評価・企画委員会コンテンツ分野第3回会合が開催された(座長は、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授、中村伊知哉氏)。この会合の後、議事録は非公開のまま、政府は4月13日に「漫画村」などの海賊版サイト対策として、民間のプロバイダー事業者など特定サイトの「サイトブロッキング」を促していく方針を発表した。「通信の秘密」を脅かしかねない重要な問題を、法律を制定することもなく、不透明かつ早急に実施しようとしたと言える。  これについても、反発が盛り上がった。背景には、安易な形で通信の秘密を脅かせば、それ以外の表現活動に対する制限につながるのではないか、という懸念があった(「『あまりにも性急でずさん』海賊版サイト緊急対策の問題点」FNN Prime 2018年4月19日)。その後、政府はブロッキングを法制化するにあたっても、議論を強引にまとめようとしたため、反対派および中立の委員が激しく反発した。その結果、ブロッキングを法制化する試みは事実上、挫折したと思われる(「海賊版「ブロッキング」法制化断念 政府、広告抑制など総合対策で対応」『産経新聞』2019年1月14日)。  だが、政府による怪しげな動きはさらに続く。ブロッキング問題が膠着しつつあった2018年12月、文化庁がダウンロード違法化対象範囲拡大のための法案を準備していた。従来は、音楽と映像に限定されてきた違法ダウンロードの範囲を、静止画やテキストなど全てに拡大しようとする著作権法改正案を図ったのである。これについても、反対の世論が盛り上がり、元国家公安委員長の自民党衆議院議員、古屋圭司氏が反対したこともあり、首相みずからの指示によって撤回された。産経新聞記者の長嶋雅子氏は、「安定政権が続き、自民党に慢心が広がっているのではないか。わけても『言論の自由』に関わる法案にはもっと目を光らせてほしい」として記事を締めくくっている(「なぜ自民は了承したのか 首相の『鶴の一声』で違法DL項目削除へ」産経新聞2019年3月8日)。正直に言って、産経新聞および産経新聞の記者が、ブロッキングと違法ダウンロードの範囲を拡大する法案に明確に反対しているのは興味深く、また心強い。  いずれにせよ、杉田水脈氏による科研費批判から始まり、海賊版サイトのブロッキング、文化庁によるダウンロート違法化法案まで、2018年中の一連の政府および自民党の動きは、言論および表現の自由を制限しようとしたものではないか、と危惧せざるを得ない。  ならば、現代日本の「民主主義」は、決して盤石であるとは言えないのかもしれない。それでも、これらの事実をもって、日本がすでに民主主義ではないと結論するのは、やはり早計であろう。インターネット、新聞、TV等のメディアを通じた「世論」による政権の政策批判は、実際に効果を発揮している。自由は、いまだに残っていると言うべきである。  宮崎駿氏は、「ある意味では、僕なんかがやってきた50数年は終わったんです。さて、いよいよはじまったんですね」と語った。この言葉に、筆者は深く首肯する。何かが始まってしまっているのは確実だろう。  もちろん、「こんなものは民主主義と呼ぶに値しない」と呼ぶ人がいるだろう。実際、今の日本を「ファシズムだ」と語る人もいる。それでは、アメリカ合衆国の民主主義がどのようなものかをごく簡単に見てみよう。
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そもそも「民主主義」とは何か
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