現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学・第7回>

MMTは政策論ではなく、貨幣論の観点から検討すべき

 連載第6回の余論で筆者は、今話題の「現代貨幣論(MMT: Modern Money Theory)」についてこう書いておきました。 「財政が魔法の泉であるかように説く、通俗的な紹介がまかり通っているようです。しかしMMTは財政赤字を正当化する小手先の政策技法ではありません。本稿では、現代金融論ではなく、現代貨幣論と訳してみせたように、もっと経済の根幹にかかわる問題なのです」  海外メディアでは「金のなる木(Magic Money Tree)」理論と揶揄され、国内メディアでも「異端の経済理論」、危険で極端な主張と非難囂々です。もっぱら非難されているのは、MMTの財政政策の考え方です。  MMTを推奨する評論家の中野剛志氏は『富国と強兵』(東洋経済新報社、2016年)の中で、次のように説明しています。 「しかし、個人や企業といった民間主体とは異なり、政府は通貨発行の権限を有する。それゆえ、政府が自国通貨建ての国債の返済ができなくなることは、政府がその政治的意志によって返済を拒否でもしない限り、あり得ない。通貨を増発して返済に充てればよいからである。したがって、自国通貨建てで国債を発行している政府には、個人や企業のような返済能力の制約が存在しない。その限りにおいて、政府には、財政収支を均衡させる必要性は皆無なのである」  またMMTの主唱者である経済学者のステファニー・ケルトン氏は朝日新聞のインタビューに、MMTが主張するように「自国通貨建ての債務は返済不能にならないと、市場は理解しているのです」、日本の「債務は全く過大ではありません」と答えています。(参照:日本学び「財政赤字恐れるな」 米「伝道師」の異端理論|朝日新聞)  両氏に代表されるMMTの見解が、インフレにならない限りとの留保付きではあれ、国は無制限に通貨を発行できるため、まだまだ財政赤字を増やしても問題がないと主張する、放漫財政の勧めと受けとめられてしまっています。  それゆえに、これらの主張に対して、経済学会の重鎮や中央銀行の首脳、そして財務省から繰り返し反論が提起されています。それぞれの主張には耳を傾けるべき内容が含まれていますし、とりわけ財務省の作成した資料は緻密です。しかし、おそらくこれらの批判はMMTの支持者に響かないことでしょう。的を外しているからです。  MMTは貨幣論です。これを財政・金融政策を論ずる政策論の次元で評価しても空振りに終わります。既存のMMT批判は、政策論の根幹にある貨幣論に届いていません。

MMTの貨幣論とその問題点

 MMTの主な主張は次の通りです。 政府は通貨を発行する権限を有する。 政府には返済能力の制約がないため、国債の返済ができなくなることはない。 したがって、財政収支を均衡させる必要はない。  しかし本稿は、次のように考えます。 政府は通貨を発行する権限を有さない。 政府には返済能力の制約があるため、国債の返済ができなくなることがある。 したがって、財政収支を均衡させる必要がある。  もっとも財政収支の均衡は弾力的に考える余地があるため、さほど重要な問題ではありません。問題の本質は、お金を創るのは国であると考える国定貨幣論と、市場の売買関係からお金が生まれると考える信用貨幣論の接合にあります。  MMTの貨幣論は、中野氏が「国定信用貨幣論」と呼ぶように、国定貨幣論信用貨幣論の合成です。これらは一般に相いれるものだとは考えられず、2つの異なる貨幣論があると考えられてきました。ところが、経済学者のランダル・レイが『現代貨幣論』(Randall Wray, Modern Money Theory: A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary Systems, Palgrave Macmillan, 2012)と題する著書の中で、この2つの理論をきれいにつないで見せたのです。  MMTによれば、貨幣は本質的に債務であり、国が創るものです。そして、債務が貨幣の本質なので理論的には現金のない信用経済を考えます。信用経済とは、貸借によって成り立つ経済です。ところがここで、貨幣の本質が債務と国定の2つになるため、理論的にはパラレルな構造になります。2つの貨幣論の後先を決定する原理はなさそうですが、MMTの独自性は国定説に信用貨幣論を組み込んだ点にありますので、国定貨幣を起点に説明します。  仮に国が定めた貨幣がない状態を仮定すると、商品の価値をはかる共通の単位がなく、市場での取引を始めることができません。そこで国が、円、ドル、ポンドようなお金の単位を設定します。そうすると、人びとは国が定めた単位で計算できるようになります。  次に、国は国民に納税の義務を課します。すると国は国民に対して「税債権」を、国民は国に対して「税債務」を負うことになります。国が発行した貨幣は、納税手段としての価値をもちます。しかし、国民は納税するための貨幣を持っていませんので、まず国が財政支出を行い、国民に貨幣を供給します。財政支出を行うと国の負債は、国民の資産となります。課税・納税によって税債務が支払われると、国と国民の間の債権債務関係は清算されます。ここから、財政赤字は民間資産の創出であり、財政黒字は民間資産の吸収である、との知見が得られます。  さらに、民間の主体は、売買を通じて債権と債務をもちます。MMTによれば、貨幣は本質的に債務であるため、民間債務は国の債務と同じように、貨幣の役目を果たします。私人間の信用(貸借)関係から生まれてくる信用貨幣です。  問題は、国と国民の間の国定貨幣循環(タテの循環)国民間の信用貨幣循環(ヨコの循環)が、理論的にはパラレルな関係になっていることです。レイは、国が国民に課税し、国民が国に納税するという権力関係を、私人間の信用関係と同じレベルの債権債務関係に類するものだとみなし、タテとヨコの本来交わらない「デュアル・サーキット」(二重の貨幣循環)債務というひとつの契機でつなぎました。ここがMMTの要石です。拡張的な財政政策は貨幣論から自然に出てくるものであり、いくら政策を批判してもMMTの土台をなす貨幣論はまったく揺らがないのです。  しかし、税を課し、税を支払わなければ罰するという権力関係と、商品の売り買いから生じる信用関係とは本質的に異なるものです。くわえて、国定貨幣が国家権力に基づいて創出されるとの想定が適切ではありません。かりに、国が純粋に力で商品を買っているのだとしたら、それは購買ではなく、徴発です。国が商品を買うためには、市場がもたらす価値を国に引き上げるほかありません。つまり、課税を通じて、市場で生み出された価値を集めて使うかたちになります。  また、納税義務の全うを至上とするような、意識の高い国民ばかりではないでしょう。かりにMMTが主張するように、国定貨幣が税債務の支払手段としての価値をもつのだとしても、その貨幣は国と国民の間でのみ循環するだけです。税債務としての貨幣が、信用貨幣のように私人間で広範に流通する根拠が示されていません。MMTは、国と国民の間の権力関係から生まれる徴税と納税の関係と、私人間の商品売買関係から生まれる債権債務関係という、まったく含意の異なる社会関係を同じものとみなしている点で決定的に誤っているのです。(第6回参照)
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MMTは主流派経済学の弱点を克服している部分がある
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