現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学・第7回>

 以上のように、MMTは貨幣論に未解決な矛盾を抱えていますが、それにもかかわらず、3つの理論的メリットをもっています。 (1)現代の貨幣を説明しやすい。 (2)主流派経済学の金融論の不備を指摘しやすい。 (3)アベノミクスの金融政策の問題点を指摘しやすい。

現代の貨幣を説明しやすい

 現代のお金はお札(銀行券)と預金です。ミクロ・マクロ経済学に代表される現代の主流派経済学は、現代のお金を適切に説明することに成功していません。この問題に正面から切り込んでいる点でMMTの研究姿勢は真摯であり、評価できます。しかし、どうして主流派経済学は現代の貨幣をうまく説明できないのでしょうか。そして、それにもかかわらず、なぜ現代の貨幣をうまく説明できない経済学が主流の地位に収まっているのでしょうか。このことを理解するためには、なぜMMTなる貨幣論が考案されたのか、その経緯を理解する必要があります。  長い間、私たちが使用しているお金の価値は、中央銀行が保有している金に支えられていると考えられてきました。戦後の資本主義体制を支えてきたブレトンウッズ体制は、アメリカ合衆国で発行されるドルを基軸通貨として、1オンスの金と35ドルを交換することを通じて、ドルと各国の通貨の交換比率を固定する制度です。この制度では通貨ドルと金とのリンクが目に見えます。ところが、1971年に金とドルの交換が停止されると、市場で為替相場が決まる制度になりました。こうして、各国のお金と金との直接的なリンクが失われたのです。私たちが普段使っているお札は、日本銀行のような中央銀行が発行する銀行券ですが、金との兌換が約束されていない不換銀行券です。また、預金通帳に記載された数字が表わす預金通貨もあります。  MMTは、現代の通貨が兌換のない信用貨幣であることを適切に説明しています。  そもそもの問題は、現代の主流派経済学が、不換銀行券と預金通貨からなる現代のお金を整合的に説明できていない、という点にあります。この問題を解決することなく、MMTがいいとか悪いとかいってみてもほとんど意味がありません。

主流派経済学の金融論の不備を指摘しやすい

 では、MMTが批判する主流派の金融論とはどのようなものでしょうか。高校や大学の教科書を開けば大抵載っている内容なので、聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。この理論は、はじめに一定額のお金がA銀行に預けられると、A銀行が一部を残して貸付け、A銀行からお金を借りた企業がB銀行に預金すると、B銀行も一部を残して貸付け、同様の貸付を各銀行が繰り返していくことで、最終的に市場に流通している貨幣の量が増える、というものです。乗数貨幣論といいます。この説明の問題は、本源的預金(はじめにA銀行に預けられたお金)という概念に集中しています。  まず理論的には、本源的預金がどこから来たのか分からない、という問題があります。次に、この信用創造の説明が銀行実務の実態から乖離しています。  銀行は、本源的預金をどこかからか集めてきて、その現金を顧客に貸し付けるわけではありません。銀行からお金を借りたことがある方ならイメージできるはずです。銀行から借りたお金は顧客の通帳に記載されます。こうして預金通貨が創造されます。金庫から札束を持ってくるわけではないのです。  本源的預金に依拠する説明が不適切であることはずいぶん昔から知られていますが、いまでも標準的な説明として教科書に君臨しています。MMTを唱える人々が苦々しく思っていることは想像に難くありません。  MMTにおいても、現代のお金を完全に説明できるようになったわけではありませんが、少なくとも信用貨幣論を受け入れている点で、MMTを批判する主流派経済学の金融論よりもずっと整合的に説明しています。

アベノミクスの金融政策の問題点を指摘しやすい

 アベノミクスのコアは、日本銀行が毎年80兆円の国債を買い上げることを通してお金(マネタリーベース)を供給する「大胆な金融政策」にあります。本源的預金として供給されたマネタリーベースが市場に出て行くと考えている点で、貨幣乗数論に依拠しているといえます。ここでの問題は、マネタリーベースとしてのお金を一般の銀行に供給しても、企業や個人にお金が流れていかないことです。(第3回参照)  信用貨幣論に基づいて考えれば、お金は銀行の貸出によって創造されるものなので、お金を借りて使いたいと考える顧客の資金需要がなければ増えません。お金が増えないのは資金需要がないためだと分かります。ただし、信用貨幣論自体は現状を説明するだけですが、MMTでは資金需要を積極的に創るとの主張が加わります。そして、需要は財政支出を通じて創られ、財政支出は国による通貨発行を通して行われるため、租税収入の制約から解放されると主張する点に、国定貨幣論の限界が典型的に現れます。  かりに貨幣が信用貨幣であるならば、それは市場で創造される価値であり、国は税を通じて市場からその価値を吸い上げなければなりません。税収の制約がなくなるのは貨幣を国定貨幣と見なした場合であり、信用貨幣論はその根拠を提供しません。  次の問題は「大胆な金融政策」で資金供給を続けても、物価が上がらないことです。アベノミクスが採用する物価の理論は貨幣数量説といいます。貨幣数量説では、物価は、市場で流通しているお金の量と市場で販売されている商品の量との比率で決まります。したがって、お金の量を増やせばお金の価値が薄まって物価が上がります。しかし、理論的にも政策的にもこれが誤りであることは既に指摘してきました。信用貨幣論をとれば、物価を貨幣量との関係で考えなくて済みます。しかしMMTは価格決定論を欠き、総需要と総供給の関係で物価を説明しなければならなくなっている点に限界があります。この点では主流派経済学に一日の長があるといえるでしょう。  本稿ではMMTの良い面も包み隠さず指摘しました。巷でなされるMMT批判には、MMTが支持される理由を理解してないという限界があるからです。もちろん、MMTには理論的に看過しえない瑕疵があり、残念ながら支持しうる内容を備えていませんが、心情的には共感できるところもあります。少なくとも、主流派経済学が未解決のまま放置してきた理論問題に向き合っています。この点には敬意を払わなければなりません。しかしMMTが理論的に誠実であるならば、貨幣論に矛盾を抱えながら進むのか、それともいずれか一方の貨幣論で一貫させる道を選ぶのか、迫られることになるでしょう。
埼玉大学大学院人文社会科学研究科・教授。専門は貨幣論。著書に『労働証券論の歴史的位相:貨幣と市場をめぐるヴィジョン』(日本評論社)などがある。
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