「かぞくについておもっていること」という記述は、「だいすきなかぞくのためにがんばっていること」へ。「じぶんのことをつたえてみよう」は「ともだちともっとなかよくなろう」へ――。今年3月、小学校の道徳教科書の検定で「不適切」とされ、修正された文章の一例だ。
2018年度から小学校で道徳が正式な教科になると決まったとき、文部科学省は「考え、議論する道徳」を掲げ、「子どもを一定の方向に導くものではない」と繰り返し説明してきた。だが、この細かい検定意見を見る限り、「おしつけ」への懸念はぬぐえない。
学習指導要領には、「規則の尊重」「公共の精神」など学年によって19~22の道徳的価値が定められている。文科省は、これを「内容項目」と呼んでいるが、戦前の教科だった「修身」の「徳目」とほぼ変わらない。教科書検定では、この「徳目」に沿って細かい意見がつき、各教材がどの「徳目」に対応するかまで明示を求めている。
冒頭の例「かぞくについておもっていること」では、「徳目」の「家族愛、家庭生活の充実」に書かれている「家族のために役に立つ」という部分が必要だったし、「じぶんのことをつたえてみよう」では、「友情、信頼」に対応していることをはっきり示していなかったというわけだ。
ほかにも、「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」では、地域への「思い」を強調するような記述が求められた。「パン屋が和菓子屋に変わった」と話題になった前回の教科書検定よりも、細部にわたってチェックが厳しくなったように見える。
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もちろん、こうした愛国心や家族愛を強調するような道徳教育の背景には、
第一次安倍政権発足直後の2006年に改正された教育基本法がある。
道徳教育は、学校教育全体を通じて行わなければならないものとされ、学校では、今、「心を磨く」活動が盛んになっている。
筆者の子どもが通う都内の公立小学校では、職員室の近くに「あいさつ賞」を受賞した児童の写真がはってある。「あいさつって表彰するものなの?」と疑問に思い、どんな人が贈られる賞なのかを子どもに尋ねたところ、「自分から先に先生にあいさつした人」だという。「たまたま先生と目が合ってあいさつしたら、あいさつ賞なの?」。疑問がふくらんだ。
「
あいさつ運動」にも力を入れている。校門前で登校する児童らに「おはようございます」を連呼する「あいさつ当番」が回ってくると、子どもは普段より早く登校しなければならない。PTAによる保護者への参加の呼びかけもある。
あいさつは、コミュニケーションの基本だといわれる。確かに、街で会った顔見知りの保護者から、あいさつをされると気持ちがいい。ただ、あくまでコミュニケーションの一つであり、どんな人間関係であっても、おうむ返しに「言わなければならないもの」ではないはずだ。だが、学校は「豊かな心の育成」を掲げ、当たり前のように運動化している。
友達への言葉がけについて、自分で目標を設定し、できたかどうかをチェックするワークシートが配られたこともあった。
なぜ、学校が子どもの人間性にまで口出しするのだろう。そんな疑問をきっかけに学校を取材したところ、「心を磨く」活動は想像以上に広がっていることが分かった。
素手でトイレ掃除をしたり、
体育の授業でお辞儀を学んだり、
親になる心構えを学ぶ授業があったり、
弁当が神聖視されていたり……。
こうした活動や授業を、誰がどんな目的で広めているのか。保護者や地域も巻き込んで達成されようとしている日本の教育の行方を、『
掃除で心は磨けるのか いま、学校で起きている奇妙なこと』(筑摩選書)にまとめた。
「虐待だ」と批判もされている素手でのトイレ掃除は、実際に体験させてもらった。体験しなければ、その活動が何を伝えようとしていて、なぜ教員たちが夢中になってしまうのかを知ることができないと思ったからだ。実際に体験することで、「ただの掃除」ではなく、一つひとつの行為に「教育的な」意味づけをされていることが分かった。
埼玉県の公立中学校には、「あいさつ賞」ならぬ「輝き賞」があった。
15分間黙ってひざをついて掃除をする「無言ひざつき清掃」を頑張っている生徒を表彰するものだ。自ら汚れに気づいて動き、自問自答を繰り返すことで、生徒たちの「荒れ」が収まるという効果があったとされている。こうした無言清掃は、さまざまな形で全国に浸透中だ。
たびたび疑似科学として話題になるマナー「
江戸しぐさ」は、学校や自治体で利用され、新たな「
○○小学校しぐさ」が生まれている。同僚の子どもが通う都心の公立小学校でも、児童による「○○しぐさ作り」が実践されたという。卒業式など儀式の際は、白シャツと濃い色のズボンを着なければならないという「○○小学校スタイル」もあるそうだ。