── 野口さんは、2004年から翌年3月まで、スタンフォードで過ごして、日本の立ち遅れを実感しました。
野口:私は、1960年代のカリフォルニアを知っています。当時、カリフォルニアは製造業の中心地でした。しかし、2004年にはカリフォルニアから工場がなくなり、それに代わってIT革命の中心地シリコンバレーが生まれていました。スタンフォード大学はサンフランシスコの南約100キロの、サンフランシスコ湾に面したパロアルトという町にあります。同大学の卒業生や関係者がIT産業を立ち上げたことにより、シリコンバレーは形成されていきました。
カリフォルニアに滞在した1年間で、工場を見たのはわずか1回だけでした。かつてフォードの自動車工場だった場所はショッピングセンターなどになっていました。しかし、日本では未だに東京から大坂まで新幹線に乗れば、沿線は工場の連続です。古い製造業にしがみついた日本と、痛みを伴いながらも、いち早く産業構造を転換したアメリカの違いを痛感する機会でした。
── 今や、アメリカのGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)、中国のBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)が急成長しています。ところが、日本のIT産業は立ち遅れてしまいました。
野口:立ち遅れたというより、日本にはそうした産業が未だにないのです。古い産業構造を維持した結果、世界から取り残されてしまったのです。私は強い危機感を持っています。
── 2008年のリーマンショック以降、日本の製造業は政府への依存を深めました。
野口:製造業に危機が及ぶと、製造業はあからさまな補助を政府に要請しました。これに応えて、政府は雇用調整助成金の支給額を引き上げ、企業の余剰人員を雇用し続けることを奨励しました。また、不振企業に対しては、企業再生支援機構を通じて直接的な補助も行いました。
政府は、自動車に対しては、エコカー減税とエコカー補助金制度を導入して、支援しました。さらに、2011年の地上デジタル放送への完全移行という形で、テレビ受像機の買い替え需要を喚起しようとしました。政府によるこうした支援は、高度成長期にはなかったことです。
つまり、政府はこうした支援によって、従来型の企業の生き残りを助け、結果的に新しい産業や企業が生まれるのを阻害したということです。
── アベノミクスをどう評価していますか。
野口:アベノミクスは、日本経済を持続的な成長経路に乗せることには失敗しました。第二次安倍内閣で、企業利益は増大し、株価は上昇しました。しかし、それは帳簿上の利益が拡大しただけで、量的な拡大を伴うものではありませんでした。
本来目指すべきは、消費主導で成長する経済を作ることです。しかし、賃金が上昇しないので、消費が拡大しません。
また、零細企業の売り上げが伸びなかったために、人員が削減されました。私は、その労働力が、大企業に移る際に非正規化したと考えています。そもそも、飲食、サービスなどの零細企業の売り上げが伸びないのは、消費が増えないからです。こうした悪循環を断ち切る必要があります。
物価上昇目標をやめ、むしろ物価を下げる政策に転換する必要があります。そして、実質賃金上昇率を目標とすべきだと思います。
── 異次元金融緩和政策については、どう考えていますか。
野口:新聞などでは、「異次元金融緩和によって市場に大量のマネーが供給された」と説明されていますが、これは大きな誤解です。異次元金融緩和で増加したのは、マネタリーベースだけです。マネタリーベースは流通現金と日銀当座預金の合計値で示されますが、いわば「おカネのモト」です。
金融政策の目的はマネーストック(経済に流通するお金の残高)を増やすことです。しかし、異次元金融緩和によって、マネタリーベースは増えましたが、借り入れ需要がないため、マネーストックは増えていないのです。
また、2012年秋頃から円安になりましたが、それは安倍政権の金融政策によってもたらされたものではありません。2011年頃には、ユーロ危機の影響で、ユーロ圏から短期資金が大量に日本に流入したため、円高が加速しました。ところが、2012年の夏から秋にかけて、ユーロ危機が沈静化したため、日本などに逃避していた資金がユーロに戻り、ユーロ高をもたらし、さらにドルに対しても円安をもたらしたのです。安倍政権が発足したのは、その後の2012年12月です。したがって安倍政権の政策が円安をもたらしたのではないということです。
── 金融緩和からの出口はあるのでしょうか。
野口:私は、異次元金融緩和をやめ、物価目標もやめるべきだと考えています。しかし、金融緩和を停止すると、金利が暴騰する危険性があります。日銀保有の国債残高が巨額なので、長期金利が上昇すれば、含み損が発生します。仮に3%金利が上昇すれば、日銀が保有している国債の評価損は69兆円に達します。つまり、金融緩和からの出口はないということです。こうした事態は、かつて日本経済が経験したことがないことです。