「ギャンブル『等』依存症」。パチンコ業界にとって譲れないこの「等」に込められている意味とは?

パチンコ店イメージ

清十郎 / PIXTA(ピクスタ)

 4月19日に、ギャンブル等依存症対策推進基本計画が閣議決定されたニュースは紹介したが、この記事を書くにあたって思うところがあり本稿を書くに至った。いつものようなニュース記事ではなく、どちらかと言えばコラムだ。そう理解し読み進めて頂ければありがたい。

便利さと空虚さを持つ「等」という言葉

「等」という言葉はとても便利な言葉だ。自分が記事を書くときには、出来るだけこの「等」という言葉を使わないように心がけているが、その便利さに負けつい「TOU」とキーボードを打ち込んでしまう。  一つの事件があったとして、その事件に対する関係者のコメントを紹介する時、実際には2つしかコメントが取れていなくても、「~等の声が聞かれた」と書けば、二人以上の人たちが、いや読み手のイメージ的にはもっと多くの人たちが同じような意見を持っていると錯覚してしまうし、書き手の手法としては「実はもっと取材したんだけど、代表的な意見を二つだけ載せておくね」というニュアンスを読み手にナチュラルに与えてしまうことも出来る。  自分の記事を棚に上げて言えば、私は何かしらの情報に接する際には、この「等」という言葉に気を付けるようにしている。その「等」という副助詞の中に、書き手は何を込めたのか、それとも空っぽの言葉なのか。  パチンコの話に戻す。

報道で消えた、あるはずの「等」

 ギャンブル等依存症対策推進基本計画についての記事を書くにあたり、先行記事のチェックをしようとインターネット記事の検索をした。  ロイター、朝日、読売、毎日、産経他、多くのメディアが、この件の閣議決定について報道記事を掲載していたが、そのすべてが「ギャンブル依存症対策推進基本計画」もしくは「ギャンブル依存症対策の基本計画」と表記していた。そう、本来あるはずの「等」の一文字が、すべてのメディアから消えているのである(唯一「等」が抜けていなかったのはBLOGOSに寄稿された菅官房長官本人の記事だけである)。  世間一般の立場から言えば、これは全くもって大した問題ではない。何の違和感もないだろう。しかしパチンコ業界の立場から言えば、この「等」が無いということによる複雑な感情がある。  政府がカジノ関連法案を検討するにあたり、当初からこの依存症対策のことが重要課題として持ち上がっていたし、はじめは「ギャンブル依存症」という言葉が跋扈した。  そしてこの「ギャンブル」という言葉の中に「ぱちんこ」(※法的表記はひらがな)も閉じ込められた。パチンコ業界はこの点について再三再四苦言を呈した。パチンコはギャンブルでは無いと。少なくとも青天井の三競オートと同列に並べないで欲しいと。そして「ギャンブル依存症」は、「ギャンブル等依存症」という言葉に書き換えられた。  世間一般の立場から言えば、パチンコだって十分にギャンブルである、という批判がある事は業界関係者も十分に理解している。しかし、対行政や法律的な観点からも、「パチンコはギャンブルでは無い」という一線だけは絶対に死守しなければいけなかった。  世間一般の立場。パチンコ業界の立場。立場が変われば言葉が持つ意味も変わる。パチンコ業界にとっては、少なくともこの「等」という言葉は譲れないのだ。  一方、メディアはどうか。  この一件を報道するメディアは、この「等」という言葉をどう思っているのか。サラリーマンに憩いの時間を提供するタブロイド紙の見出しの話をしているのではない。名だたる一流のメディアの話をしているのだ。そのメディアが、政治や法律を正しく世に伝えようとするのであれば、この「等」という一文字を抜くべきでは無いのではないのか。  百歩譲って、その記事を書いた記者が「ぱちんこはギャンブルである」という確固とした個人的な見解があったとしても、事実を伝えるべき報道人として、この「等」の一文字を抜いてはいけない。この一文字の後ろには、その業で口に糊する数十万の従業者とその家族がいるのだ。言葉を安易に伝えてはいけない。  その「等」の一文字にも、誰かの矜持がある。
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ギャンブル等依存症対策推進基本計画の中のもう一つの「等」
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