情報の所有意識の変化についても触れておきたい。筆者の体感だが、この20年ほどで、情報の所有の概念が大きく変わってきたように思う。
インターネットに触れ始めた最初の頃は、ネットで見かけた必要な情報を全てローカルに保存していた。あるいはブックマークを保存していた。それがいつからか「検索すればいいや」になってきた。そして「検索して似たような情報が何か見つかればいいや」に変化していった。
これは「情報に対する感覚」だが、「コンテンツに対する感覚」も近いものがある。
たとえば音楽はyoutubeで聞くことが多くなってきている。そうなると「特定の曲を聴く」という行動以外に、「○○のような感じの曲を聴く」という視聴が増える。
情報やコンテンツに対して、似たもの、コピーされたものも含めて「近いものならそれでいい」という摂取スタイルだ。アクセス可能な情報が増えすぎた結果、個々のコンテンツに対する執着は、過去に比べれば減った。
コンテンツが膨大になり、それらに対する接し方が変わってきた。それと時を同じくして、コンテンツへのアクセス方法が脆弱になってきた。情報が溢れる時代であると同時に、個々の情報を消すのが容易な時代になってきた。無限に複製可能な電子化時代になったのにである。
私たちは、デジタルコンテンツは、意外に寿命が短いことに気が付きつつある。
たとえばWeb上の情報は、時間とともに消える。無料ホームページサービスなら、その運営元が手を引けば情報はなくなる。企業サイトや個人サイトも、その企業や個人が維持費を止めれば、サイトごと消滅する。
画像や動画を保存していても、それを表示したり再生したりするソフトウェアやハードウェアがなければ開けなくなるリスクがある。実際に、過去の時代に使われていた画像ファイルの中には、開けるソフトが古いものしかないケースもある。
また家庭用ゲームは、そのハードウェアがなくなれば遊ぶことができない。中には有志がエミュレータを開発して、現在のハードウェアで動かすことができるようにする場合もある。しかし、そうした動きがなければ、そのままアクセス不能になる。
パソコン用のソフトウェアも同じだ。あるCPUでしか動かないものもある。OS依存の命令を使っており、その命令が最新OSからなくなれば実行できなくなるケースもある。スマートフォンのアプリケーションでは、最新のOSに追随してアップデートしなければ、ストアから削除されることもある。
意識的に所有するだけでなく、視聴環境を維持しなければ、デジタル時代のコンテンツは、人間の寿命よりも短い期間でアクセス不能になる。過去のコンテンツにアクセスするには、何らかの自衛が必要な時代になってきたと感じている。
<文/柳井政和>
やない まさかず。クロノス・クラウン合同会社の代表社員。ゲームやアプリの開発、プログラミング系技術書や記事、マンガの執筆をおこなう。2001年オンラインソフト大賞に入賞した『めもりーくりーなー』は、累計500万ダウンロード以上。2016年、第23回松本清張賞応募作『バックドア』が最終候補となり、改題した『
裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬』にて文藝春秋から小説家デビュー。近著は新潮社『
レトロゲームファクトリー』。