衆議院インターネット審議中継 より
安倍内閣の特色を一言で言い表わせば「偽装内閣」となる--。
3月22日に発売した『月刊日本 4月号』では、第3特集として「安倍偽装内閣」という特集を組んでいる。
森友学園では公文書を改ざんし、加計学園問題では「官邸の最高レベルが言っている」とする文書をひた隠しにし、ついにはGDPを高く見せるために、統計偽装まで手を染めた安倍内閣。
それらはすべて、官邸を忖度して役人が行った所業である。官邸が無理な答弁を重ね、それに併せて文書や数字をいじらざるを得なくなっているのだ。
なぜ役人はそこまで官邸に忖度するのか? なぜ安倍政権はこれほどまでに権力を一手に掌握し、肥大化したのか?
今回は同特集から、慶應義塾大学教授の片山杜秀氏の論考を紹介したい。
―― 安倍政権は官邸機能を強化し、官僚を一元的に統制してきました。その結果、官僚が官邸を忖度するようになり、森友学園問題や加計学園問題、最近の統計偽装問題など、数々の不祥事が起こるようになったのだと思います。これは戦前の日本と似ています。片山さんは『未完のファシズム』(新潮社)や『近代天皇論』(集英社新書)で、戦前の日本が権力を一元的に管理しようとした様を詳細に描いています。
片山杜秀氏(以下、片山): 戦前の日本は軍国主義やファシズムと呼ばれ、独裁的な政治が行われていたかのように言われることがありますが、必ずしもそうではありません。明治憲法体制は権力機構を細分化し、各セクションの縦割りを徹底させていました。
たとえば、戦前の立法府は二院制で、貴族院と衆議院にわかれていました。そのうえ、どちらが上位であるかは規定されておらず、片方が可決した法案を片方が否決すれば、即廃案になりました。また、片方が可決した法案を片方が修正すれば両院協議会が開かれ、合意に達しなければやはり廃案となりました。
もちろん議院内閣制ではないので、議会政治家が内閣を組織する決まりもありませんでした。大正中期の原敬内閣から昭和初期の犬養毅内閣までは、衆議院で第一党となった政党の党首を内閣総理大臣とすることが「憲政の常道」とされましたが、あくまでもその時代の慣行にすぎません。天皇が議会と関係なく総理大臣を任命することもできました。
他方、行政府が強力に機能していたかというと、そうではありません。内閣総理大臣の権限は弱く、なかなか閣僚の調整役以上の役割は果たせませんでした。行政府には内閣と対等な組織として枢密院が設置され、内閣の判断を覆すこともできました。つまり、行政府もまるで二院制と同じだったのです。
さらに、軍隊は行政府や立法府から独立しており、内閣も議会も命令できない仕組みとなっていました。逆に、軍もまた建前としては政治に介入できないことになっていました。
これらの分散した権力を束ねることができたのは、制度上では唯一天皇だけです。天皇が指導力を表立って発揮して親政を行えば、強力な天皇独裁というかたちで、権力を一元的に束ね、国民も同様に束ねるという意味でのファシズムが実現できたかもしれません。しかし、明治憲法は天皇に政治責任の及ばぬように運用されたので、天皇はなるべく自らの意思を示さないように振る舞うのが「憲政の常道」になっていました。
これでは論理上、誰も意思決定をできないことになってしまいます。しかし、実際はそうではありません。明治時代には明治維新の元勲、元老たちがリーダーシップをとっていました。明治維新の経過から見ても、彼らが意思決定を行うことが当然視されていました。誰も権力を持てない明治のシステムは、そのシステムを作り上げた元老たちによって初めて機能するようになっていたのです。
しかし、元老は憲法にも規定されておらぬ、言わば超法規的存在で、跡継ぎの決め方や人数など、何の決まりもありませんでした。そのため、彼らの寿命が尽きてしまうと、誰もリーダーシップをとれないシステムだけが残ることになりました。
そこで、大正時代には政党内閣を組織することで、議会と行政の一体化を進め、縦割りの政治機構を束ねようとしました。しかし、これは必然的に内閣との力関係を気にする枢密院や、軍の反発にあいます。最終的に、政党内閣は血盟団事件や五・一五事件などによって壊されてしまいました。
日米戦争期になると、東條英機は総理大臣と陸軍大臣、参謀総長を兼任することで、縦割りを乗り越えようとしました。大国アメリカと戦争をするためには、日本の乏しい国力を最大限に束ねて、効率的に国策を推進しなければならない。ところが明治憲法体制がそれを許さない。改憲できないなら、兼職で縦割りを跨いでいくしかないという一、東条の苦肉の策です。しかし、行政と作戦指導を同時に行うことは難しかった。東條の奇策は実りを生まず、ついに退陣に追い込まれます。
このように、ファシズムを権力の強力な一元化と定義するならば、戦前のファシズムは「未完」に終わりました。人間の力ではシステムに打ち勝つことができなかったのです。
―― 戦前の日本がファシズムに失敗したとするならば、権力の一元化という点では、戦前よりも現在のほうが進んでいるということでしょうか。
片山:戦後の憲法体制では、衆議院は参議院に優越し、参議院が法案を差し戻しても、衆議院で成立させることができます。また、議院内閣制が確立しているため、与党が強ければ、議会と行政を一体的に運営することができます。
とはいえ行政をこなす官僚の人事については、基本的には政治が介入できない仕組みになっていました。政権に都合のいい官僚を自由に登用するのは禁じ手だったのです。
しかし、現在の安倍内閣は、内閣官房内に設置された内閣人事局を利用することで、高級官僚のポストをかなり自由に決定できるようになっています。また、彼らは首相補佐官や大臣補佐官といった新しい役職、それから内閣総理大臣と内閣官房を助けるという大義名分のもとに役割を拡大し肥大しきった内閣府を活用して、行政システムのありかたを大きく変容させました。
さらに軍事については、戦後国家は、文民統制によって自衛隊を総理大臣の指揮下に置いています。
その結果、いまや安倍内閣は戦前よりもはるかに強権的な力を行使できるようになっているのです。
もっとも、これは安倍内閣一代で急に起きた話ではないでしょう。内閣人事局は既に福田康夫内閣時代に法的には設置可能になっていました。実際に設置したのは安倍内閣ですけれども。また、日本の戦後体制は、吉田茂時代から、内閣官房のもとに権力を束ね、官邸主導を実現することを目指していたとも言えます。
そもそも内閣官房とは何でしょうか。近代国家は大きくなればなるほど、時代が進めば進むほど、役人の業務が増え、また高度化していくため、役所を細かく縦割りにし、専門化していかざるを得ません。そうしないと、行政は回らないのです。
しかし、各役所が自分たちだけで情報を抱え込み、縦割りに徹して、よそのセクションからの介入を嫌い、官邸に十分、報告を挙げないようなことがあれば、各専門セクションの暴走を止められなくなります。それはまさに戦時の日本が経験したことでした。そこで、戦後初期から新生日本国家は官邸主導をひとつの理想にしました。役所の情報を内閣官房に集約し、閣議や国会運営にも不都合を生じぬようにし、総理がいつも全体を差配できるような建て付けをめざしたのです。
もともと官房とは、ヨーロッパの皇帝が独裁的に権力を行使できるように、あらゆる情報を集めた部屋のことです。特にドイツでは「官房学」が発達し、皇帝権力の強大化に活用されました。明治国家体制の日本では、内閣官房に相当するのは内閣書記官室で、それを仕切るのは内閣書記官長でした。戦前から総理の女房役とも呼ばれていました。しかし、戦後の官房長官と違うのは、内閣書記官長は閣僚に含まれていなかった。情報を集約して把握し、総理を操縦さえできそうな地位ですから、そこはさすが明治憲法体制で、内閣書記官長がえばって縦割りを超えた強い力を持ちすぎぬように、位を下げたのでしょう。内閣書記官長や官房長官は、鎌倉幕府で将軍を差し置いて権力を握った執権のようなものになりうるポジションなのです。
そういう意味では、安倍内閣は官房が歴史的に期待されてきた本当の役割を見事に心ゆくまで実現したと言えます。内閣官房のセクションを肥大化させたうえに、省庁の人事権まで付けたのですから、日本近現代史上最強と言える。戦前のファシズムは「未完」に終わりましたが、安倍内閣は官房を「完成」させた。戦前と似ているどころの話ではない。はるかに超越しているのです。
―― 戦前の日本では権力が分散化していたため、役人たちが総理大臣の意向を忖度して行動したとしても、他の役所や軍隊に反対され、失敗することもあったと思います。しかし、現在はその可能性はほとんどありません。とすれば、官僚の忖度は現代的な問題と考えるべきですか。
片山:明治時代にも役人たちが山県有朋や伊藤博文を忖度することはあったと思います。彼らであれば、役所の人事も左右で来たでしょうから。しかし、おっしゃる通りで、今は明治よりもかえって変数が少ない。薩摩が押しても長州が、陸軍が押しても海軍が反対するかもしれない。しかし、今は、総理や官房長官に対抗する勢力はないでしょう。官邸から仄めかされれば、最大限類推して、忠実にふるまうのが当世の官吏道になっているのでしょう。