マスメディア時代の「政治」。90年代ー劇場型政治完成前夜の緊張関係<「言葉」から見る平成政治史第2回>

「テレビ政治」時代の始まり

 90年代のメディア状況を簡潔に振り返っておくと、従来政治報道の王道だった新聞に加えて、テレビ政治が本格化する時代だと考えられる。ただしここでいうテレビ政治とはテレビ報道が政治の権力監視を担うようになったというよりも、政治がテレビというメディアを本格的に意識するようになったということだ。  1985年にテレビ朝日が「ニュースステーション」の放送を開始した。著名なアナウンサーの久米宏をキャスターに据え、わかりやすい報道や演出、久米のパーソナリティを押し出した構成を試みた。この路線は好評ですぐに他局も追従し現在に至っている。  政治報道の重要性が改めて強く認識されるようになったといえる。たとえば90年代初頭の政権交代ではテレビ東京のキャスターだった小池百合子が日本新党の目玉候補として出馬するなどテレビ的影響力の活用が本格化する。  報道の政治的中立のあり方と放送事業者の放送免許を巡って、政界、メディアを揺さぶった椿事件もそのひとつの象徴といえる。テレビの政治的影響力を重要視するようになっていたため、事件化したといっても過言ではあるまい。  そうはいっても政治とメディアの関係は伝統的なものであった。新聞、テレビ問わず、記者たちは伝統的な取材を貫徹するために、番記者システムや夜討ち朝駆け等を通して、政治とつかず離れずの特別な「慣れ親しみの関係」を形成していた。とはいえ、それは必ずしも日本のメディアの権力監視機能が弱かったということを意味するものではない。マスメディアも政治とカネに関する問題などをめぐって各社の競争関係が問題の深掘りを促進したこともあった。  政治と社会を繋ぐ回路が乏しかったこともあって、政治は広く何かメッセージを届けるためにはマスメディアを活用するほかなく、マスメディア関係者に対して仮に彼らがときに不躾な記事を書いたとしても優遇していたし、事実、それだけの力がマスメディアにはあったかもしれない。  日本の政治報道の不幸な点は現在に至るまでこうした関係性を主にマスメディア関係者が自明視してきたことだ。結果、ネットが台頭し、メディアの環境と力学の変化が生じているにもかかわらず革新的なアプローチに乏しく、権力監視機能の適切な更新を実施できずにいる。

「インターネット」時代の萌芽

 1995年には新語・流行語大賞のトップテンに「インターネット」が加わっている。コマンド入力を極力排して操作できるOSのWindows95が発売され、パソコン利用の敷居が下がったこと、またインターネット接続が容易になったことがその理由と考えられる。だが、総務省の「通信利用動向調査」によれば、1996年の世帯のインターネット利用率はわずか3.3%。現実にはインターネットは社会的に全く認知されたものではなかった。  ただしパソコン通信やキャプテンシステムなど類似のネットワークが既に1980年代から存在し一部で認知されていたこともあって、まったく受け入れの土壌がなかったというわけではなかった。  しかし講評に「加入利用者数4000万人、約150カ国、つまり地球上ほとんどの地域の人とコミュニケーションができる、お化けのような情報交換システム『インターネット』。コンピュータのグローバルネットであり、文字どおり『国際化』は現実のものとなった」との記述があるように、インターネットに新しい時代の萌芽を見出そうという社会の機運もまた確かに存在したのだ。  このように乱暴に政治とメディアの出来事を振り返るだけでも1990年代を通して、多くの日本社会の実態的な変化のきっかけが埋め込まれた。ただし、バブル経済が崩壊し、GDP成長率が1%程度で推移する「失われた10年」になったとはいえ、まだ戦後長く蓄積した富の余裕が日本社会を支えていた。また人々もこれから長いデフレとその後の経済的な低迷期に突入するとは思っていなかったのではないか。  以上、足早に90年台の日本の政治とメディアの状況を振り返ってきたが、次回からいよいよ「政治の言葉」に焦点を当てて見たいと思う。 <文/西田亮介 写真/時事通信社> にしだ りょうすけ●1983年、京都生まれ。慶応義塾大学卒。博士(政策・メディア)。専門は社会学、情報社会論と公共政策。立命館大学特別招聘准教授等を経て、2015年9月東京工業大学着任。18年4月より同リーダーシップ教育院准教授。著書に『メディアと自民党』(角川新書)、『なぜ政治はわかりにくいのか』(春秋社)など
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