国際勝共連合はその名称が示すように、徹底した
反共産主義を掲げる右派・保守系の団体だ。ただし、同連合の主張内容に韓国への批判は見当たらない。主だったものは中国共産党への批判だ。韓国発祥の教団関連機関だけあって中国の批判はしても韓国の批判はしない。なぜ、そのような組織が日本の保守界隈と連携しているのかと疑問を持つ人は多いだろう。その疑問は、これまでの日韓関係を少し遡るだけで氷解する。
現在の反韓・嫌韓感情が渦巻く保守界隈の空気感とは異なり、日韓両国は1990年代以前には「反共の同志」として良好な関係にあった。米
CIAの後ろ盾のもとで「北朝鮮の共産主義に打ち勝って統一/勝共統一」をスローガンに反共活動組織を必要としていた
朴正煕政権(1961~79)の庇護を受けるため、
統一教会の
文鮮明教祖は、便宜的に反共産主義を掲げて朴大統領に取り入った。
文は67年に山梨県の本栖湖畔で行った戦後右翼の大物らとの
日韓反共首脳会談を契機に翌68年1月、韓国で
国際勝共連合を創設、日本でも同年4月、
岸信介総理大臣の後ろ盾を得て国際勝共連合を創設するに至る。
当時の日本といえば東西冷戦下での安保闘争真っ只中という時代だ。そんな時代背景のもと、献身的に反共運動に邁進する青年を抱える勝共連合は政財界へ浸透していく。
1970年9月に国際勝共連合が中心となって日本武道館で「
WCAL(世界反共連盟)世界大会」を開催。74年5月に文鮮明が帝国ホテルで開いた
「希望の日」晩餐会には
岸の他、
福田赳夫、安倍晋太郎ら40人の
自民党国会議員と財界の要人が出席した。
水面下での政治家工作も継続して行われてきた。
秘書養成所で訓練した信者が議員のもとに送り込まれ、秘書のほかにも事務所スタッフや選挙運動員として提供された。文鮮明は「
まず秘書として食い込め。食い込んだら議員の秘密を握れ。次に自らが議員になれ」と指示、送り込まれた信者部隊はそれぞれの政治家の懐に入り込み、弱みを握った。
2000年代中盤以降、文鮮明の指令は忠実に実行され、信者自身が素性を隠して地方選挙に出馬した。幾人かは当選し、確認できただけでも蒲郡市や流山市、大阪市等で信者地方議員が誕生している。