“好感度至上主義”のネット社会で、「社会学者」を自称することのリスク<北条かや>

ネット上で権威を名乗ることは諸刃の剣である

 

北条かやの「炎上したくないのは、やまやまですが」【その36】

 またやらかしてしまった。先日、ライターである私が「自分のことを社会学者だと名乗ったことはない」という旨のツイートをしたところ、非常に多くの批判的なコメントが寄せられたのである。 「『キャバ嬢の社会学』という新書でデビューしておきながら、今さら社会学者と名乗ったことはないなんて、手のひら返しも甚だしい」「Amazonの著者紹介には『社会学者』とありますが、どういうつもりですか?」  寄せられたリプを見て痛感したのは、デビューしてから約6年間、私は自分がどう思われているかを全く気にしたことがなかった、というより理解していなかったということである。    確かに私は2012年、『キャバ嬢の社会学』という書籍でデビューした。キャバクラについて書いた修士論文を、カジュアルな内容へと書き換えた本だ。表紙には自分の顔写真がデザインされ、「社会学」「京大院生」という属性が大きくアピールされた。  デビュー作の著者プロフィールを考えたとき、 「私は修士号しかもっていないので、『社会学者』と名乗ったらきっと叩かれると思います。社会学は好きですが、肩書は『ライター』がいいと思うのですが」 という私に、編集氏は「著述家」はどうかと言った。 「ライターは、雑誌記者からコラムニストまで色々なタイプがいるので、肩書としては少し弱い。せっかく論文をもとにした書籍なのだから、『著述家』の方が良いと思う。インパクトが出て、他のライターとの差別化になる」  なるほどと思った。ライターも著述家も、言ってしまえば同じ意味。だが「著述家」の方がお堅いイメージがある。当時は硬派な文章が好きだったのもあり、「著述家」の方が良いと判断した。  ありがたいことに、本はそこそこ売れた。しかしすぐに『~の社会学』と冠したツケは回ってきた。
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「社会学」を冠すると、学問の権威を借りた売名と捉えられてしまう
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