“好感度至上主義”のネット社会で、「社会学者」を自称することのリスク<北条かや>

「社会学」を冠すると、学問の権威を借りた売名と捉えられてしまう

「あんなの社会学じゃない」「社会学をバカにしている」などの批判がたくさん寄せられたのだ。論文ではないとしつつ「~の社会学」を語れば、学問の権威を借りた売名と感じる人もいるだろう。人の感情はコントロールできない。  ある日、ウェブ生放送で「社会学」について講義をすることになった。相手企業から渡されたプロフィールには「社会学者」とあった。「あれ? 私は社会学者じゃないんだけどな」と思い、修正してもらった。  私を社会学者だと思わないでくれ。学者は私なんかより、もっともっと研鑽を積んでようやく得られるポジションだ。私は社会学が好きだが、私なんかのせいで社会学を一般化されたくはない。  自分はライターであり学者ではない。世間からもそう思われているはず。なぜなら博士号を持たず、査読論文も書いておらず、何より「自分自身がそう思っていないから」。  しかし世間は、私が思う以上に「学者」とか「作家」とか「ジャーナリスト」とか、権威ありげな肩書を名乗る者に厳しかった。  作家でブロガーのはあちゅうさんは、実力十分で小説も書いているのに「私はライターではなく作家だ」と言っただけで非難されたし、査読論文を書いていないと告白した社会学者の千田有紀氏は、「そんなことで学者をやれるのか」と、すさまじい罵声を浴びた。  権威的な肩書きを名乗る者は、常に世間から「その肩書にふさわしいかどうか」チェックされる。権威ある者が引きずり下ろされる様を、エンタメとして楽しむ風潮はずっとある。  まあ私の場合は、もとから「正統な社会学者」だと思われていたわけではない。ただ「社会学者と思われたい俗物」か、「社会学者の名をかたって、自分を売り込むセコい奴」だと認識されていたわけだが。  それが今さら、「私はライターだ」と主張して非難されたのは、社会学という権威に乗っかってデビューしておきながら、「権威なんて利用したことはありません」と否定してみせるポーズが「ズルい」と思われたのだろう。  ネット社会は「権威」の濫用に厳しい。インターネット自体がもともと、大手新聞やテレビ局、学者や政治家など、これまで通用していた権威の「欺瞞」を暴きやすいツールだからだ。そこでは誰もが議論に参加することができ、ある意味「平等」な空間が広がっている。権威の無効化と平等性は、ネットの良い面でもある。  ただしそこでは、今までの権威よりも「ネット社会で築いた評価」の方が優先される。評価とは「好感度」のようなもので、実にあいまいだ。国家資格のようにハッキリした条件はなく、なんとなく好ましい存在であること。人を「論破」するコミュニケーション力があること。これが、ネット社会で評価されることの全てである。  私はそういう社会から、そろそろ逃れたい。6年やってきて、好感度を維持するのは疲れるし、そもそも困難だと分かった。私は世間からどう思われようが、自分と身近な人が幸福であればそれでよい。肩書きなど、しょせんは自己満足である。  だから今度のことも正直「知ったこっちゃない」というのが本音だ。しかしTwitterで発信するよりいくらかは、こうしてまとまったコラムの方が思考を整理しやすいので、筆をしたためた次第である。今はこのネット社会からいかに逃れるかを、ずっと考えている。 <文:北条かや> 北条かや】石川県出身。同志社大学社会学部卒業、京都大学大学院文学部研究科修士課程修了。自らのキャバクラ勤務経験をもとにした初著書『キャバ嬢の社会学』(星海社新書)で注目される。以後、執筆活動からTOKYO MX『モーニングCROSS』などのメディア出演まで、幅広く活躍。著書は『整形した女は幸せになっているのか』(星海社新書)、『本当は結婚したくないのだ症候群』(青春出版社)、『こじらせ女子の日常』(宝島社)。最新刊は『インターネットで死ぬということ』(イースト・プレス)。 公式ブログは「コスプレで女やってますけど
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