経験者が語る「覚せい剤は、なぜやめられないのか」。薬物依存=病気という理解の先にあるもの

依存=病気という理解の先にあるもの

 数年来、「薬物依存は(犯罪である以前に)病気である」という見方が、社会の認知を受けつつある。わたくしの考察では、依存=病気という論調が世間の一定の理解を受け始めたのは4~5年前、ASKAさんの逮捕騒動があった頃からで。2008年に起きたノリピー騒動のときの社会世論は、「社会規範を裏切った犯罪者を断罪せよ」という論調一辺倒だったから、この10年の間でわれわれ社会は、“依存”という不可解な人間衝動の謎を、より正しく的確な理解へ進めてきたのだろうな、とは思います。  一方で――、 「覚せい剤は、なぜやめられないのか?」については、その難しさについては、まだまだ言葉にされてない。  病院や薬物更生施設に入ってプログラム受ける…てのは、薬物依存をなんとかするための良手だし、現実的にそれしか打つ手はないわけだけど、薬物を“やめる”には、それだけじゃあピースが不足してる。  ここから先、すごく困難なことを言うわけだけど――薬物を“やめる”には、生きる意味とか目的とか、愛とか、仕事のやりがいとか、打ち込めるなにかとか…全部じゃないにしろ、そういうもののいくつかを、自分自身で見つけてかなくちゃならないと思うんですよね。  ただでさえ、誰だって、薬物をやってない人だって見つけるのが難しいものを、薬物に打ちのめされた酷い状態から、自分で発見してかなくちゃならない。  どうやってそんな、本人以外には発見しようのない、正解のないなにかを、しかもこの現実の中で探せばいいのか。この難しさが、覚せい剤を“やめる”難しさだと自分は思ってます。  社会福祉を受けながら更生施設に入っていてもいなくても、あるいは親からの生活援助を受けていても、いなくても、結局のところ、薬物を“やめる”ために必要なことって、そういうものなんじゃないかなあ。  と、言うと――「人生の目標とか意味なんて発見できてないけど、自分は覚せい剤なんかやっていないよ」と言う人ももちろんいて。もちろんそれは、よかったですね! という話なんだけど、だからそこは、一度覚せい剤の依存に陥っちゃった人には、なおさら、生きる意味とか目的とか、仕事のやりがいとか……繰り返し書くのが恥ずかしくなるような、でも生きるのに大切な様々な実感が必要なんですよね。だって――たった0.数グラムの覚せい剤の中には、生きがいとか、生きる価値とか、人生の充実感とか、そういった全てが強烈な幻として詰まっているんだから。それが覚せい剤というドラッグの凄まじいところで。 「薬物はやめられない、だからずっと毎日、その日その日薬物をやらないことを人生の目標にする」というのは、一つの目標設定として正しい。同時に切実すぎて、切ない。気が抜けない。不安になる。  そういうときに、生きる意味とか目的とか仕事のやりがいって、じつは生きるための強い味方でもあって、もしそんなものが発見できていれば、たぶん相当、いろんなことが楽になるんだよな。  自分は、20代の青春時代に覚せい剤と過ごしたデタラメな日々を本に書いて、それからもドラッグ依存では苦戦しているんですよね。毎度毎度えらいことになっちゃって! その度になんとか息も絶え絶えに立ち上がって、今も絶え絶えに、本書いたり仕事してます。  現在のわたくしは、薬物への衝動的な依存発作とか、薬物への欲求を感じることはないんだけど、だから“依存状況は脱しているなあ”と思っているんだけど、時間のある日曜日とか、薬物依存の人たちが集うミーティングには出ています。  そこは自分にとって、自分を俯瞰する一つの大切な居場所で、そこで自分は匿名の一人であって、何を喋ってもいいし、喋らなくてもいいし、たくさんの人がいて、いろんな言葉が放たれている。今回は、高橋祐也さんのことをきっかけに、自分もまた”依存”の当事者として、匿名の一人として仲間たちに語るように、考えたことをまとめてみました――。 <文/石丸元章> 石丸元章氏いしまるげんしょう●’65年生まれ。ライター、DJとして活躍する一方、’90年暮れより取材過程でドラッグにのめり込み、’95年に逮捕、起訴。その顛末を書いた初の著書『スピード』と続編『アフター・スピード』(ともに飛鳥新社。のちに文春文庫)がベストセラーとなる。他に『Fiction! フィクション!』(扶桑社のち文春文庫)など
1
2