麻原彰晃らの死刑執行を機に浮上する、元教団関係者を過度に追い詰める論調に潜む危うさ

 麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚ら、計7人のオウム事件首謀者や実行犯の死刑が執行された。あの一連の大惨事を引き起こした「オウム真理教」の教祖や幹部たちである。  世界犯罪史上にも類を見ない未曾有の事件であったうえに、いまだ後遺症に悩む方や、遺族の方々の被害者感情を踏まえれば、刑の執行は当然であるし、中には“喜ばしい”執行と見る向きもいるかもしれない。  ただ、元オウム真理教信者や幹部、現在も麻原彰晃尊師への帰依を抱え修行に励む信者、今もひっそりと続けられる民事裁判への取材で彼らの素顔に触れた筆者としては、複雑な思いを抱える。  彼らとも個人的な触れ合いの際には「その時笑っちゃったのがさ……」「実はこんな人間臭いやりとりがあって」「あそこだけは楽しい思い出」といった言葉も得られるのだが、一度録音やカメラが回り出せば、彼らの脳内でも言葉選びや自身の立ち位置に関する駆け引きなど、目まぐるしい情報処理と計算が行われ、結果として当たり障りのない回答が導き出される。  この下りには毎回やるせななさしかない。  薄々感づいている方も多いのではないかと思うのだが、恐らく本当に我々が注目し考え、分析や多角的考察で迫らなければならないのは、彼らが惹きつけられた“魅力”だ。  この中にこそ恐ろしい何かが潜んでいる。闇雲に“不謹慎”との言葉で批判以外の論調を封殺すべきではないのではないだろうか。  また、私が上祐史浩氏とのイベントを定期的に行っていることについて、批判意見以上に多く寄せられる質問が次のようなものだ。 「でも、まだ上祐さんって実際は洗脳解けてないんでしょ?」  言わんとすることはわからんでもないが、私にはこのような言葉を用いる人のほうが「洗脳」という単語やイメージからある種の洗脳がなされているようにも思える。  そもそも洗脳とは何らかの圧力や強制力で特定の思想や主義を根本から変えてしまうことだ。  例えばAという思想を持っていた者に圧力を加え、Bという思想に染めてしまうのが洗脳。この時洗脳された者はBという思想にのめり込むあまりAという思想を否定することもあるだろう。Bを否定されたら声を荒げるかもしれない。  この洗脳が解けた場合、彼はAの思想にもBの思想にも理解を示す力を持ち、肯定意見も否定意見も受け入れたうえで自分なりの判断を下し、のめり込みもしないという客観視が出来ることだろう。
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オウムと麻原関係者の「全否定」しか認めない社会がはたして正しいのか
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