足立議員は6月10日にブログで
「私が杉田水脈議員を執拗に攻撃する理由-与党のアホは万年野党の悪人よりたちが悪い-」と題するエントリーを書いている。不必要に引き合いに出されている杉田議員以外の人々への当てこすりを除いて、1文字たりとも異論はない。杉田議員の科研費制度に対する不勉強ぶりや、根本的な誤解・曲解を鋭く抉り出す足立議員の筆致は爽快ですらある。
このブログ記事の前哨として6月7日に足立議員は次のようにツイートしている。
“あと科研費の問題。杉田水脈の酷いレッテル貼り。あのキャンペーンでどれだけの偏見が世間に広まったか。そもそも人文系には新規で科研費全体の1割強しかいっていない。
地域研究と反日研究、研究活動と政治活動との線引きが困難な中で今の審査体制のどこに課題があるのか。あるなら指摘してみろ!”
足立議員の問題意識はここに端的に示されている。すなわち、研究計画書に基づくピアレビュー(独立した複数の専門家による審査)をパスし、一定の水準にあると認められた科研費の研究課題について、その内容が「反日」であるか否か、研究者の活動が「政治活動」に該当するか否かの判定は困難なのだから、杉田議員が惹起した一連の騒動は、日本の学術振興の妨害にしかなっていない、というのである。
足立議員の科研費問題への対処のありようは、圧倒的に正しい。そしてやはりこちらにも「ガッカリした」「もう投票しない」などの批判的なリプライが多数寄せられているが、足立議員はそうした連中には決して阿ることはしない。これも圧倒的に正しい。同議員の自身の言論に対するこの姿勢に筆者は心から賛意を申し上げたい。
現政府を支持するか否かとは無関係に、これからの国がどうあるべきかについて健全な議論を行うためにはしっかりとした土台が必要だ。その土台を整えるための材料提供をするのが学術研究の役割のひとつにほかならない。だからこそ国家は「学問の自由」を保障し続けなくてはならないのである。
国家の役割のひとつは国民の富の再分配にある。これは極端なリバタリアン以外は首肯するところだろう。国家はそれによって国民の生活を守り、また学術や文化の発展に寄与することを通じて国民の生活の質の向上を目指す。
このときの国民には、当然ながら時の政権を支持する人もいれば、批判的な人もいる。学術や文化の担い手である研究者やアーティストも同様である。政府寄りかどうかで公的な助成が制限された場合、片側の視点のみが大手をふるって世に蔓延ることになる。これが議論の土台が破壊された状況だ。
したがって「
少なくとも国費を使うのであれば、(「学問の自由」には)一定の制限があっても仕方がないだろう」などと言う産経新聞政治部の田北真樹子記者などは、国民の健全な議論を妨げる。
「学問の自由」が政府との距離に応じて一定の制限を加えることが正当化されるのであれば、それは政府に批判的な国民の権利をも制限するという結論に半歩踏み込んだに等しい。是枝監督をバッシングしている連中が将来を望む世界とはそうしたものなのだ。
そもそも『万引き家族』が描くような、社会からこぼれ落ちてしまった人々に眼を向け、彼らを包摂できるような日本を作ろうというのが国を愛する者として最低限度の態度なのであって、監督をバッシングして気焔を上げている連中は、どう考えても日本社会にとって害悪でしかなく、「国賊」と呼ぶほかない。
日本が現行憲法に基づく民主主義国家である以上、国家が学術と文化の健全な発展を促進すべく、専門家により価値が高いと判断された研究や芸術作品に助成を行うのは当然のことと考える。無論、助成を受ける側も矜持を持ち、各々の目的に向けて誠実に取り組む必要がある。
足立康史議員の学術及び文化行政に対する考え方は極めてまっとうなものだ。筆者は強く共感するとともに、足立議員には今後とも対杉田水脈決戦兵器としての活動に邁進していただきたいと切に願っている。
どうやら
日本が大統領制のように行政権と立法権が完全に独立していると思い込んでいるらしい、中学生レベルの知識も欠いた杉田議員が、科研費という日本の学術行政の枢要について意見を述べるという、この滑稽にして実に情けない現実を打ち破ってくれることを、「国会の暴言王」の二つ名を持つ足立議員に強く期待したい。
<文・GEISTE(Twitter ID:
@j_geiste〉>