プッチェモン前州知事は3月24日にヘルシンキからブリュッセルに車で戻る途中、ドイツで拘束されたが、12日間ドイツの刑務所に拘束された後保釈となった。
プッチェモンはカタルーニャの独立に理解を求める為に、昨年10月30日に反逆罪と横領罪の容疑で逮捕されることから逃れる為閣僚4名を同伴してベルギーに逃亡した。ベルギーの法廷は政治逃亡者を受け入れることに比較的寛大で、しかもベルギーには反逆罪は存在しないことから、逮捕されても横領罪の判決が下される可能性はあるが、禁錮30年という重罪の反逆罪に問われることはないと判断したようだ。
さらに、仮に横領罪でスペインに身柄を引き渡されたとなると、スペイン法廷はベルギー法廷での判決を覆すことができない。よってスペイン法廷で反逆罪の容疑では訴追できなくなるのだ。それ故に、彼らがベルギーに留まっている間はスペイン最高裁は欧州逮捕状を発行するのを控えていた。この不都合を利用してプッチェモンはベルギーに留まって、そこからカタルーニャの独立の為の活動をするとした。彼に同伴した他の閣僚も同様であった。
2月にはブリュッセルから比較的近いワーテルロー地区に別荘を借りて、そこを住居兼カタルーニャ独立運動の本部とした。この家賃や弁護士への費用の支払いはプッチェモンがジロナ市の市長そしてカタルーニャ州知事の時代に彼から恩恵を受けた企業家から資金が出ていると治安警察は調査から推測しているという。(参照:「
OK Diario」)
ベルギー滞在中、何度か講演などに呼ばれデンマークなどに出向いていたプッチェモンだが、3月のフィンランドのヘルシンキ大学の講演に出るタイミングで、スペイン最高裁が欧州逮捕状を発行、フィンランド警察が受理し、プッチェモンの弁護士はヘルシンキの警察署に出頭すると語った。
しかし、プッチェモンは警察に出頭もせず、空港で待機する報道陣の前にすらも姿を現さなかった。その時点から彼は行方をくらませたが、スペインの諜報機関である国際情報センター(CNI)は彼がヘルシンキに到着した時点から彼の居場所は常に掴んでいたという。そして、彼がベルギーでいつも乗車するルノー車がストックホルムに向かっていたことまで逐一掴んでいた。
CNIは彼の携帯電話から彼の居場所が判明するシステムを備え、そのルノー車にはビーコンを事前にセットしていたのある。この二つの探知システムによって、彼がヘルシンキからストックホルムにフェリーで移動し、そのあと彼の車でブリュッセルまで戻ることが事前に分かっていたのである。(参照:「
El Confidencial」)
そして、ストックホルムからデンマークを経由してドイツに入った時点で拘束するということを決めて、ドイツ連邦警察の協力のもとに逮捕に踏み込んだのである。
CNIと国家警察がドイツでの拘束を選んだのはスペインとドイツはこれまで罪人の身柄の引き渡しなどで良い関係を保っているからである。しかも、ドイツにも反逆罪が刑罰にあることもドイツでの拘束を選んだ理由であった。
しかし、実際にはそれが裏目に出ることになる。