日本人劣勢の囲碁界で一人闘う井山裕太七冠を、世界はどう評価するのか?<2>
日本最強の囲碁棋士である井山裕太は、小学校低学年のときから無敵だった。井山裕太の前に日本棋院所属で世界戦決勝に進出した張栩に前回に引き続き話を聞くと、井山裕太は小学二年の時点で小6の子供も出場する棋戦で優勝していた。
だが、そんな自信満々の裕太少年の鼻っ柱が折られるときがやってくる。
「私は小学3年生のとき初めて中国のエリートが集まる大会に参加し、日本で同世代に負けたことがないので当然優勝だと思っていたら、自分レベルがゴロゴロ。世界の広さを思い知らされました」(週刊ダイヤモンド2017年7月8日号)
日本にも今の中国人棋士のようにまともに学校へ行くことなく囲碁に打ち込んだ棋士がいる。「小学校中退」という趙治勲名誉名人・二十五世本因坊である。
義務教育のはずの小学校をどうすれば中退できるのか筆者は未だによくわかっていないのだが、とにかく趙治勲はすでに来日していた長兄が引き取る形で六歳のとき来日し、学校に全く通うことなく木谷實門下で囲碁漬けの毎日を送った。張栩はこう語る。
「まあ治勲先生の幼いころはそこまで小さな子供が囲碁に打ち込むという時代ではなかったように思います。競争という点においては現代のほうが全然厳しいです。ただ、木谷道場という精鋭しか入れない特殊な環境にいられたのは大きいですよね。今の韓国や中国にはそういう濃密な場所がありますが、日本にはない。井山裕太一人で団体戦を戦っているわけです。そういう条件で井山さんが世界を相手に戦うのは、本当に厳しいことなのですよ」
張栩は井山裕太が小学校のときからコイツが自分の首をとりにくると確信していた。
「あとは、僕の首がとられる時期をどこまで伸ばせるか、という勝負でしたね。彼がプロになったのは中一でしたが、もうその時点でトップと遜色がない実力を示していました」
井山裕太にプロ棋士としての自信を与えたのは、間違いなく張栩だった。
「16歳の時に大会一回戦で当時の張栩名人と対戦して戦う前の自分の状態は決して良くなかったのですが、それでも勝てた。(中略)張栩名人に勝てたなら他の人にも勝てるだろうという変な自信が付いたのは大きかったですね」(前掲誌)
この対戦を今も張栩ははっきりと記憶している。
「早碁の大会で本選の早めにあたり、負けちゃったんですけど、その時点ではもう全然かなわないというほど強い相手ではありませんでした。実際、その後数年間は対戦成績でこちらのほうが圧倒していましたからね。それでも彼が19歳のときに名人戦で僕に挑戦してくる形となり、そのときは防衛しましたが翌年には名人位も獲られてしまいました。あの当時は僕が井山さんを止めなければ誰も止められないという使命感みたいなものがありましたね。僕でさえ五冠がとれたくらいですから、彼が七冠をとっても何の不思議もないです」
“僕でさえ”とは謙虚がすぎる気がするが、なまじトッププロだからこそ才能の違いがわかるのだろう。
「十歳も歳が違って、ある意味小学校の時から僕が教えたようなもので、そんな存在にタイトルを獲られたというのは、ある意味微笑ましいところもありますね」
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