それから数か月が経ったある日のこと、外回りから帰ってきた営業担当から、驚きの事実を知らされる。工場の目と鼻の先にある得意先に、辞めた2人がいたというのだ。その報告は、彼らの退職後、その得意先から毎月あった百万円単位の受注が、ほぼ0になった理由が分かった瞬間でもあった。
父の工場は絵に描いたような超零細工場だったものの、金型業界に提供していた独自の技術やノウハウは、日本のモノづくりには欠かせない高度なものだった。
昨今の「職人になるのに長い修行期間は必要ない」という風潮に、嘲笑すら出るほど人材育成には時間がかかったが、こうして独自の技術を守ってきたからこそ、ニッチ(すきま)産業として大企業から見放されず、日本経済の荒波にも耐えられてきたと自負していた。
そんな工場で、ようやく職人として仕事を任せられるほどに成長した8年目の中堅が、転職先の大手に提供した技術やノウハウは、小さな町工場にとって“財産”に相当することは言うまでもない。こうした人材によって漏れ出た技術は、町工場から大手へ流れると、やがて移転先の海外工場へと“輸出”され、現地採用された従業員によって、あっという間にその国中へと拡散されるのだ。
改めて「競業避止義務」とは、“ライバル企業や自身のために競争的な性質をもつことになる行為をしてはならない”というものだ。同業他社への転職や起業などのほか、会社によっては、引き抜き禁止なども誓約書に盛り込むことがある。
一方、被雇用者からすれば、これまで培ってきた知識や経験は、自身にとって最大の武器となるため、在職中はともかく、退職後の縛りは不合理を感じるかもしれない。実際、憲法第22条では「職業選択の自由」が保障されており、転職を不当に制限する契約は「公序良俗違反」とみなされ無効と判断される。
しかし逆に言えば、就業規則や雇用契約書などに合理的な範囲で転職を制限する根拠が示されていれば、同義務の有効が認められることもあるのだ。