単独を厭わず警笛を発した「構造改革」と「グローバリズム」
東大辞職後の西部は、評論家となった。小説家の故・野坂昭如氏らと円卓を囲んだ「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)への出演や、で不当なバッシングに見舞われていた元首相の中曽根康弘の応援演説という“肝試し”など、世事の真っ只中に身を投げ入れながらも、バークやチェスタトンなどを扱った『
思想の英雄たち』をはじめ、保守思想の書物を書き続けてきた。
’94年には、月刊誌『発言者』を創刊(その後、『表現者』に改題し、現在はMXエンターテインメントから隔月で発行中)。構造改革とグローバリズムの虚妄に沸きたち、テクノロジーとマネーを追い求め狂騒する平成日本において、単独者たることを厭わずに、警笛を発してきた。
西部:雑誌を出したのは、ある建設関係の会社の社長とのやりとりがきっかけだったんだ。「こっちが雑誌を出したいと思っているのに、金を一銭も出さない。何が経済人だって」言ってやったら、「なら俺が出す」となった。
それで動き始めたんだけど、肝心の金がこない(笑)。結局、最初に言っていた金額の半分しか出さず、しかもそのまた半分は借り入れということで話がついた。困ったとは思ったけど、こっちはもう旗揚げしているし、向こうには俺に金を出す法律上の義務はないから、仕方ない。これはもう突き進むしかないと。
『発言者』の発刊パーティでは、ある大出版社の社長が「こういうのは業界では3号雑誌といいまして」とぬかしたんだけど、もう23年続いているからね。俺も結構世間知があってね、雑誌がいかに厳しいかってことは知っているんだよ。瓢箪から駒ってあのことだぜ。
雑誌の発刊を含めて、いままで言論活動を継続してきたわけだけど、グローバリズムだろうが、構造改革だろうが、孤立無援のなかで俺は本当に血相変えずに頑張ってきた。
構造改革に反対する意味は簡単でね、レヴィ=ストロースの構造主義をはじめ、大半の学問分野で「構造」といえば、長い長い歴史に培われた自分たちの意識や心理の根本に立ち返ったときに出てくるものをさす。それは、少しずつは変えることができても、抜本なんてことをすれば、崩れてしまうものなの。それを分からなかったのは、アメリカなんですよ。
アメリカの構造改革なんていうのは、工場やオフィスにコンピュータを入れようという、いわゆるコンピュータライゼーションに過ぎなかったんだよ。それが、日本に入ってくると、日本社会の構造がダメだから、構造を変えようってなった。オイオイ、って言ってきたけど、何の効果もなかった。結局は俺のいう通りになるんだよ。でも、俺とは何にも関係ないんだ(笑)。
福田(恒存=英文学者で保守思想家)さんの話にこんなのがあった。ある人が家に尋ねてきて「最近、やっと先生の意見が受け入れられてきましたね」なんて言うんだって。それに対して、福田さんは「それは俺とは関係がない」とはっきり言うんだ。「世の中が変わって、そういう人が増えてきただけだって」ってね(笑)。彼が遺言的に残した「言論は虚しい」という言葉には、そんな想いも込められているのかもしれない。
でも、俺は全学連をやってますから、言論に限らず、虚しいのは知っている。まあ、案の定、虚しかったと(笑)。そりゃ虚しいよ。でも、みんなこうだったんじゃないかな。いまから言えば、「福沢(諭吉)はこう言った、中江(兆民)はこう言った」なんていうのがあるのかもしれないけど、本人からしてみれば「ずいぶん前から言っているだろう!」とね(笑)。
時代と真っ向から対立しながらも、決して怯まず、果敢に駆けぬきてきた。状況の真っ只中に身を置き、歴史の連続性の中に置かれた存在としての、自己と他者を見つめ続けた――。「未来への突撃」と「過去との対話」を繰り広げてきた、西部邁の78年は、やはり“ファシスタ”のそれだったのだと私は思う。そんな西部の人生がぎっしりと詰まった『ファシスタたらんとした者』は、先行き不明で度し難い現代社会を生きる我々一人ひとりに対する、ヒントでありエールでもあるのだ。
<取材・文/河野嘉誠>
【西部邁】
にしべ・すすむ●1939年北海道生まれ。東京大学経済学部卒業。東大在学中には、共産主義者同盟(通称:ブント)の中心的人物として60年安保に参加し、東大自治会委員長と全学連中央委員を兼務。その後、横浜国立大学助教授、東京大学教養学部教授を歴任。1988年に東大を辞職したのち、評論家となる。1994年に雑誌『発言者』を発刊。「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)や自らがホストを務める「西部邁ゼミナール」(MXTVで放送中)などのテレビ出演でも知られる。著書に『
経済学倫理学序説』(中公文庫・吉野作造賞受賞)、『
大衆への反逆』(文藝春秋)、『
生まじめな戯れ』(筑摩書房・サントリー学芸賞受賞)、『
サンチョ・キホーテの旅』(新潮社・文部科学省芸術選奨受賞)など多数