争点は、密室での「演奏権」がどこまで認められるかという点
次に、「ヤマハは、ピアノの発表会や教本に関わる著作権使用料を支払っている」という報道について。これも一般的な感覚としては、「なんだ、ヤマハは必要な支払いはきちっとしているじゃん。JASRACはその上から更にお金を取ろうとしているの?」となってしまう。
しかしこの件も、法的にはまったく筋違いなことで、今回JASRACがヤマハ等の音楽教室に求めているのは「演奏権」に関わる使用料。先生が演奏して、それを一人でも誰かが聞いていた時には、演奏権の問題が発生する。ここが筆者も含め、世間一般的には理解し難いところではあるが、法的にはJASRAC側の主張が正しい。
この演奏権に関して、「じゃあ、(例えば町中で)音楽を一方的に大衆に聞かせ料金を徴収するのか!」みたいな、批判ツイートも見かけるが、それこそ筋違い甚だしい話で、著作権料を支払うのは音楽等を流した側で、さらには(原則として)流した側に利益が発生している場合に限られる。
以上のことを確認した上で、今回の問題のポイントは「演奏権」の問題一本であり、音楽教室という、仮に講師1名、生徒1名シチュエーションで、著作権使用料を支払わなくてはいけないのか、ということに集約される。
著作権に関する問題は、金銭の問題であると同時に、知的財産に関わる国や制度、世間の考え方の問題でもある。
知的財産を(金銭的に)保護することによって、新たな知的財産が生まれるという考え方と、その知的財産を一般的に広く「模倣」することによって新たな知的財産が生まれるという考え方のせめぎ合いはずっと続いている。
簡潔に言うと、自分が創作した楽曲が、著作権法に守られることにより、収入の糧となり創作活動を継続することが出来る(知的財産保護の側面)という考え方と、著作権をフリーにすることにより、新たに創作活動を志す人が学びやすく取り組みやすい環境を作る(模倣による新たな創造)という考え方。
どちらにせよ、今回の「JASRAC VS 音楽教育を守る会」の法廷闘争は、JASRAC側に分があると思われる。音楽教室側が「音楽教育を守る会」を設立し、多数の会員を取り込み法廷闘争に挑むのは、音楽教育の「勝訴」を勝ち取るためではなく、「和解」という落としどころを探りながら、支払うべき著作権料を出来る限り引き下げるための「訴訟戦術」に過ぎないとみるのは穿ちすぎか。
<文・安達 夕
@yuu_adachi>