日本人がプライバシー権を勘違いしている限り、働き方改革は成功しない

パブリックとプライベートを徹底的に分けて考える

山口真由氏

 アメリカのプライバシーに関する判決から気づくことがある。  公的領域(パブリック)と私的領域(プライベート)があって、プライベートに関しては、最大限の個人の自由を認められるということだ。  冒頭のGPS捜査に関する判決で、日本の最高裁が、GPS捜査が公道だけではなく、個人の敷地内のような私的領域に踏み込むことを理由にして、プライバシーの侵害と断じた。  この「公道」「私的領域」の区別は、物理的な話だけではない。どういう肩書を手にして、いかなる業績を残し、世間からどう評価されるかという職業人生は、いわば個人のオフィシャルな経歴、公的領域である。それに対して、アメリカの最高裁が繰り返し判断しているように、誰を人生のパートナーとして選び、いつ子どもを持って、どういうふうに愛情をかけて育てていくかという家庭生活は、まさに個人の私的領域なのだ。  職場や学校など多くの人と関わる公的領域には、守らなければならないたくさんのルールがある。それに対して、私的領域は、もっと自由であるべきだ。自分の人生でどんな価値を大事にし、誰と関わり、何を遺すかは、あなたの人生なのだから、あなたが主体的に決めるべき。自分と自分の近しい人たちが納得できればいいのであって、他人から、ましてや国からとやかく言われる問題ではない。  そう、この「自分の人生を主体的に選ぶ」という考え方が、プライバシーの本質である

今の働き方改革は、プライバシーを無視している

 そう考えると、働き方改革というのは、まさに個人のプライバシーの問題だと気づく。  仕事と家庭、つまり、パブリックとプライベートのバランスをどのように振り分けるかは、個人の人生で重要な選択となる。仕事に人生を捧げて、家庭を省みないと言われてきた高度経済成長期のサラリーマンたちが、本当にそういう人生を送りたかったというと、実際は違うかもしれない。全員が遅くまで働き、それをよしとする環境では、子どもをお風呂に入れたいから早く帰りたいという希望は通りにくい。これは、自分の人生の配分をどうするかという、個人の決定権を侵害している。ワークとライフのバランスを自分で決めるという「ワークライフバランス」は、まさにプライバシーの本質をついている。  電通で起きた高橋まつりさんの事件も、この自己決定権を踏みにじられたがゆえに起きた悲劇とはいえないだろうか。苛烈を極める仕事の中で、プライベートに割ける時間は減っただろう。たとえば、恋人と会える時間も減り、会うためにおしゃれをする余裕もなくなり、仕事の愚痴に侵されて一緒に過ごす時間の質も下がっていったのかもしれない。もし自由に選んでいいなら、自分のプライベートにもっと時間と労力を割きたいのに、会社がそれを許さなかった。そうやって、自分の人生が会社に侵されていくことが、彼女の絶望感につながったとしても不思議ではない。
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「働き方改革」に欠けていること
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