「9条が日本の平和を守っている」。盟友、山崎拓が弔辞で明かした加藤紘一との日々
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盟友・山崎拓が読み上げた弔辞(書き起こし)
”終生の友・加藤紘一君の御霊前に額ずき、心からなる追悼の辞を申し上げます。 去る9月10日夕刻、君の訃報に接し、正直、覚悟はしていたものの「ついにその日がきたか」と深い悲しみに襲われました。一昨年6月、ミャンマーの旅から帰国後病床にあると聞いて、幾たびかお見舞いに行こうと試みましたが、面会謝絶とのことで果たせず、焦燥の思いでした。 とりわけ僕はこの2年ほど前から、講談社からの勧めで『YKK秘録』の出版を思い立っておりましたので、その記述の内容について、主役である君の了解を得る必要があり、その機会がなかなか得られず困惑しておりました。結局、もう一人の主役である小泉純一郎君をはじめ、拙著の登場人物のどなたにも了解を得る礼を欠いたままの出版となってしまいました。この機会に改めてお許しを乞います。 僕はこの本の中で、僭越ながら「YKK時代」を勝手に使用しましたが、「YKK」というネーミング自体が君の発案であり、今の政界には見られない躍動感のある「YKK時代」というものがあったとすれば、それは、全て君が書いた脚本を、君自身が演出したものであります。僕など脇役の一人としてひたすら追随しただけであります。若手政治家約90名を結集させた「グループ・新世紀」の結成や、小選挙区制度導入反対など、YKKの連帯による政治行動は、時の政治にダイナミズムを与え、いやが上にも国民の政治に関する興味と関心を惹起させたことは間違いありません。まさに君の政治的レガシーの一つであると思います。 君と僕は1972年12月10日投票の第33回総選挙で初当選した36名の仲間とともに同期の桜です。君とは年齢も近いこともあってすぐに仲良くなりました。君は東大法学部卒業後、外交官試験に合格した、類稀なる秀才です。一方の僕は、早稲田大学で柔道三昧の学生生活を送った文字通りの体育会系出身でした。我々二人の結びつきは材質の異なった合板のように、かえって強靭な友情が生まれたのかもしれません。 僕が3歳年長でしたが、僕は君に兄事しました。君は常に僕より先行しました。内閣官房副長官、防衛庁長官、自民党政調会長、自民党幹事長、全て先輩として手ほどきしてくれました。 僕が中曽根内閣の官房副長官を拝命した時です。君は僕に対して、「総理大臣随行の外遊の際には、主要国首脳会議後の同行記者団に対するブリーフィングの役割は、決して、外務官僚に任せてはいけない。党人派の副長官はえてしてめんどくさがって、自分でやろうとしないが、君は自分でやらないといけない。少しやばいと思うかもしれないが、大事なことが国民に伝わらない恐れがあるし、君の政治家としての訓練にならないよ」と、アドバイスされました。僕は君のように語学が達者でないので、自信がありませんでしたが、当時まだ48歳なのに、補聴器まで買ってその役割を全うできるように務めましたよ。 君の語学力は抜群で、英語力のみならず、中国で北京大学の学生に一時間に渡り北京語で講演したと聞きました。その事実も含めて、君が日中友好増進に努めた功績は誠に大きいと確信しております。 2年前、君がミャンマーに旅立つ直前に、赤坂で天ぷらそばを食べましたね。その時僕はずっと君に懐疑的に思っていたことを思い切って聞きました。それは「君は本当に、憲法9条改正に反対か?」という問いでした。君は「うん」と答えました。「一言一句もか?」とまた聞きました。「そうだよ。9条が日本の平和を守っているんだよ」と、断言しました。振り返ってみると、これは君の僕に対する遺言でした。まさに、日本の政界最強最高のリベラルがこの世を去ったという思いです。 最後に、所謂「加藤の乱」については、あれは一度も止めなかった僕が悪かった。すまん。というほかはありません。 少し長くなりましたが、しかし、少しも言い尽くせていません。我が国に健全保守勢力を築く君の後進が育つことを祈りつつ、かつ、君の愛娘加藤鮎子代議士が大成されることを期待して、お別れの言葉といたします。 親愛なるコウちゃん。いずれ近い将来、君のいるところに行くことになります。また酒を酌み交わし、君が得意な歌を存分に聞かせてください。 さようなら 平成28年9月15日 山崎拓”
『日本会議の研究』 「右傾化」の淵源はどこなのか?「日本会議」とは何なのか? |
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