45年前の市ヶ谷駐屯地で三島事件は起きた。三島が演説した東部方面総監部は朝霞へと移転して建物ももうない。 photo by 本屋(CC BY-SA 3.0)
三島事件は民族派学生たちに衝撃を与えた。
「三島さんたちに先を越された」という衝撃ではない。「あんな奴らに何ができるとバカにしていた連中が、誰にもできないようなことをしよった!」という衝撃だ。有り体に言って、事件勃発まで、学生たちは、三島由紀夫と「楯の会」をバカにしていたのだ。「楯の会」の連中は綺麗な軍服で着飾り、自衛隊に体験入隊してみたり、平凡パンチに出てみたりと、いわば、ミーハーなことばかりしている。学生運動の現場で左翼セクト学生と圧倒的に不利な状況での闘争を繰り返している民族派学生運動の活動家たちが「楯の会」をバカにしたのも自然だろう。その証拠に、三島とともに割腹自殺を遂げた森田必勝は、事件の前にもともと所属していた日学同(※1)から除名処分を受けている。三島・森田と共に防衛庁に乱入した小賀正義、三島・森田の介錯をした古賀浩靖の2名は、生長の家信徒であったため全国学協に所属していたが、決して主流派ではなかった。民族派学生運動の2大セクトである日学同・全国学協のいずれにおいても落ちこぼれた連中が「楯の会」に流れる。。。そんな雰囲気が、当時の学生たちにはあった(※2)。
だからこそ、民族派学生たちにとって、三島事件は衝撃だった。散々バカにし、見下し、除名までした連中が、自分たちでは決してできないような大事件を起こしたのだ。その後の三島裁判で、日学同・全国学協の双方が、必死になって裁判支援闘争を繰り広げたことを笑ってはいけない。事件後の彼らを「手のひらを返したように」と揶揄してはいけない。
彼らにとってはせめてもの罪滅ぼしだっただろう。しかし、裁判支援闘争は惨憺たる結果に終わる。彼らが裁判の中で証言として残そうとした昭和憲法論や、自衛隊論は歯牙にもかけられず、単なる威力業務妨害事件・監禁傷害事件として、三島事件は司法の場で片付けられてしまった。
裁判闘争失敗からくる無力感や、全国学協を指導する立場の「生長の家」教団からの指示についての解釈の相違などから、全国学協と社会人組織である日本青年協議会は対立するようになる。やがて対立は激化し、「生長の家」教団の方針や日本青年協議会の指導に飽き足らなくなった全国学協は、ついに、自身の社会人組織である日本青年協議会を除名するに至った。
この間の経緯はその後の日本青年協議会や安東巌の身の処し方を語る上で極めて重要だ。いずれまた詳細に書くであろう。しかし、今は先を急ごう。