日野市役所「封筒墨消し騒動」に潜む危うさ

日野市役所の「アイヒマン」

 SS公安部でユダヤ人大量虐殺の任に当たったアイヒマンは、特段、狂信的な反ユダヤ主義者ではなかった。平凡なサラリーマン生活ののち、ふとしたきっかけでナチに入党した彼は、党の綱領さえ知らず、また、ヒトラーの「我が闘争」すら読んだことがなかったという。そんな彼が、小役人としての実直さゆえに評価され、「ユダヤ人問題の最終的解決」の担当者になり、アウシュヴィッツ収容所へのユダヤ人「輸送」の責任者となる。アウシュヴィッツの所長であるルドルフ・ヘスと協議もし、収容所で何が行われているかを見学もしていたにもかかわらず、アイヒマンは何の疑問を挟むことなく、ユダヤ人大量虐殺に加担し続けた。  後年、この行為を法廷で問われた彼は、「職務の一環であり、全ての命令に忠実に従っただけだ」と証言している。この法廷をつぶさに見学したハンナアーレントは、大量虐殺という未曾有の悪事に加担したアイヒマンを観察し、彼が悪魔のような人物ではなく、単なる凡庸な小役人でしかないことに驚きつつ、その罪は“thoughtlessness”にこそあるとした。  手元にある「イェルサレムのアイヒマン」の邦訳を久しぶりに開いてみると“thoughtlessness”は「無思想性」と翻訳されている。しかし、直訳すれば、また、アーレントが「自分で考えることを放棄する恐ろしさ」を指摘している背景を踏まえれば、「無思考性」と訳するのが妥当だと思われる。  つまり、アイヒマンは、「なにも考えなかった」のだ。  あの戦争の教訓や人権意識の高まりの結果、今日の我が国で、もし万が一「大量虐殺を行え」という職務命令が出されたとしても、これに唯々諾々と応じる人はさすがにいなかろう。職務命令が要請する義務と己の良心とを天秤にかけた上で、「大量虐殺という行為は許容できぬ」と、「なにも考えない」人であっても判断できる。  しかし、「黒ペンで『日本国憲法の精神を遵守しましょう』という文言を塗りつぶす行為」は、「なにも考えない」人びとにしてみれば、「職務の一環」として平然と行えてしまう行為なのだ。  つまり、「憲法の精神を遵守する」という価値基準は、少なくとも、日野市役所において、もはやそのレベルにまで堕ちてしまったのだ。  浅薄で浮ついた空気が充満する日野市役所には、自ら思考することを放棄し、易々と非常識な行為を犯してしまうアイヒマンがいた。  アイヒマンがいるのは、日野市役所だけではあるまい。浅薄で浮ついた空気が人を思考停止に追い込む場所に、アイヒマンは、必ず、いる。 <文/菅野完Twitter ID:@noiehoie)>
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