アンソニー・ホプキンスのオスカー受賞は「番狂わせ」なんかじゃない! 映画『ファーザー』のここが凄い

普遍的な悩みを扱ったからこその意義

 本作の物語に強く興味を惹かれ、大いに感情移入をして観ることができるのは、「親の認知症」という、世界中の誰もが直面する普遍的な悩みを扱ったためでもあるだろう。  そして、前述した「認知症の症状(の疑似体験)」は、当事者にとって本当に恐ろしいことなのだと、まざまざと思い知らされる。目の前の人が誰かもわからない、自分の認識と矛盾したことを言われてしまう、最近の記憶が飛んでしまって昔のことしか思い出せない……。認知症を患った当事者にとって、それは、どれほどの恐怖だろうか。苛立ちや虚勢といった態度を取る理由も、その恐怖に起因しているのだと、認知症でない人にとってもはっきりとわかる。そのことにも大きな意義がある作品であったのだ。
© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF  CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  TRADEMARK FATHER LIMITED  F COMME FILM  CINÉ-@  ORANGE STUDIO 2020

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 『女王陛下のお気に入り』(2018)でアカデミー主演女優賞を受賞し、この『ファザー』では娘のアン役を務めたオリヴィア・コールマンは、本作のメッセージについて「すごくシンプルなことだと思います。愛する人が自分を忘れていくことの切なさ、親子の関係と認知症がテーマの、美しくて感動的な作品です」と述べている。その通り、劇中では様々な混乱する出来事が起こるが、決して難解な内容というわけでもない。最終的には、切なくも美しい愛を、ストレートに描いた作品であることを理解できるだろう。

「あの頃の父」を演じていた

 本作が長編映画デビュー作となったフロリアン・ゼレール監督は、戯曲を元にした脚本を、アンソニー・ホプキンスありきの「あて書き」へと変更した。主人公の名前がまさにアンソニーであり、誕生日が1937年12月31日で同じというのも、ホプキンスのキャスティングを前提とした設定だ。  実はホプキンスは自身の演技について、「(セリフの暗記は大変だったが、それ以外は)簡単だった」とインタビューで答えている。それは、あて書きをされていたことに加えて、「自身の父を演じていた」ことが大きな理由であったようだ。  というのも、ホプキンスの父は明確な認知症ではなかったものの、亡くなる前にその兆候が見えており、「頭は冴えていても口調がきつかった」「死を恐れるあまりとても怒っていた」姿をホプキンスはよく覚えており、目が合うだけで身がこわばっていたこともあったのだという。
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 劇中の主人公であるアンソニーは、朗らかな笑顔を浮かべ、茶目っ気もたっぷりではあるが、時折り暴言を平然と放つ、認知症だからこその不安定さがある。ホプキンスは、そんな「キュートさ」と「恐ろしさ」の狭間で揺らぐキャラクターを演じ切っている。冗談を言って朗らかな笑顔にもなる一方で、目の前で突きつけられる数々の事実に困惑し、それは時に怒りへと変わり、時には絶望する。そのような認知症の人が、普段から味わっているであろう体験を、ホプキンスが「あの頃の父」に成り代わったように体現しているのだ。  そして、ラストにおけるホプキンスの演技の素晴らしさは、筆舌に尽くし難い。これまで愛おしくもあり、傍若無人でもあったこのアンソニーというキャラクターが行き着いた、ある「感情」を目の当たりにして、涙が止まらなかった。
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改めて、主演男優賞に値する理由
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