PIROKI / PIXTA(ピクスタ)
この10年を振り返って想うのは、家族が健康に過ごすことができて良かった、ということです。福島第一原発の事件があって東京から名古屋へ退避した当時、私の娘は9歳だったのですが、無事に成長して現在は大学生になっています。大学の学生寮に入るため、1年前に家を出ていきました。大学は京都市にあって、京都市は北陸地方の「原発銀座」から至近にあります。もしものときに飲むように、と安定ヨウ素剤の錠剤を渡して送り出しました。
これでもう親としての任務は終了です。なんとか無事に乗り切ったという自負もあれば、もっとやれることがあったと想い返すこともありますが。ただ、娘に対してもうしわけない気持ちになるというのは、ぼんやりと無邪気に生きられるはずの子ども時代を、大変な緊張のなかで生きさせることになってしまったということです。これは私たち親のせいではなくて、経産省と東京電力のせいなのですが。
娘は9才のころから、ふたつの現実感を見て、生きてきました。ふたつというのは、放射能汚染をめぐる「危険論」と「安全論」です。
家では、放射性物質を危険物とみなし、ぜったいに避ける原則で動いています。外食はしないし、出どころのわからない食べ物は廃棄します。市民測定所や避難者の集まりに行けば、大人たちはみな放射能汚染の危険性を語ります。市の学校給食センターが、東日本1都17県の食材を控えているということも、娘は知っています。
他方で、テレビではまるで放射能汚染などなかったかのように、無邪気に食べ歩き番組を流しています。キノコ料理を食べたり、乳製品のお菓子をほおばったりしている。また、環境大臣が、がれきに空間線量計をあてて安全だと言っている姿が映されます。首相が福島第一原発は完全にコントロール下にあると発言する姿を流しています。そうした報道が流されるたびに、両親がテレビに向かって悪態をつくのを聞きながら、娘は育ってきたのです。
これはけっして例外的な話ではなくて、全国に散った避難者の家族は、どこでも同じことを経験しているはずです。避難者の子どもたちは、危険論をとる大人と、安全論をとる大人と、両方を見ながら育ってきたのです。