なぜフェミニストは長州力に惹かれたのか。男社会の「会議」と長州力

死に近い「野生の者」

 わたしはつぎに、一般論からはじめました。外堀をうめることからすこしずつ問題にせまっていこうとかんがえたのです。  おおくの女性は、野性味のある男がすきです。これは伝統的にそうで、女性たちは野生の者を好む傾向があります。ふるくは股旅ものの芝居や、現代ではヤクザを題材にしたVシネマなど(!)が、女性たちに根強い人気を誇っています。  なぜおおくの女性が、野生の者にひかれるのでしょうか。野生の者ということは、いいかえれば、死にやすい者、死に近い者たちです。社会には、死をとおざけて生きる者と、死に近い者がいます。階級社会ということは、そういうことです。ヤクザ、漁師、とび職、狂信者、警察に追われる「極左過激派」など、いつ命をうしなっても不思議でない人間というのは、独特の魅力をはなつものです。かれらの死への近さが、女性が一般的にもっている生活感覚にじつはちかいからでしょう。  現代という時代は、人間が死をとおざけて、かなりのていど死をわすれて生きることができるようになった時代です。しかしそんな時代にあっても、女性たちは死に直面する場面をおおくもっています。出産ともなれば、母子ともに生きながらえることをねがい、食事管理や体温計測から神社のお参りにいたるまで、可能なものはなんでもやります。こどもがうまれれば、つねに体調を管理し、感染予防対策をし、事故にあわないように目をひからせる毎日です。出産・育児とは、間近にせまった死に抵抗し、たたかう場面です。死をわすれることなどできないのです。おそらく、ヤクザのような特異な存在がおおくの女性たちをひきつける理由は、その特異さであるというよりも、その死にちかいありかたがふくんでいる普遍的な感覚からだといえるでしょう。

「栽培された者」

 野生の者たちの対極にあるのは、栽培された者たちです。死に抵抗してがむしゃらに生きるのではなく、自動化された機構のなかで栽培される者です。おそらくわたしに質問をしてきた女性は、大学教員など研究職といった人びとと接するなかで、そこにいる栽培された者たちにあきあきしているのでしょう。かれらのなかには信条的にちかいひともいれば、ひじょうにリベラルで女性に理解のあるひともいるのですが、彼女をひきつけるなにかの魅力という点では、長州力におとるのです。  ここまで考えたところで、時間切れになりました。もう一歩、議論をすすめなければいけないのですが、残念ながら終電の時間になったので解散しました。彼女の発した問いは、宿題として、わたしの頭の片隅にのこりつづけています。
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批判を浴びた「#変わる男たち」
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