マルクスと宇沢弘文。資本主義と闘った知識人たち<ジャーナリスト・佐々木実 × 経済思想家・斎藤幸平>

アメリカのマルクス主義者に魅せられて

佐々木 現実に起きている問題と向き合う姿勢は非常に大事ですね。アメリカで数理経済学者として勇名を馳せた宇沢は、日本に帰国して公害という現実に直面し、大きな変貌を遂げました。  宇沢の研究者人生の前半はアメリカン・ドリームそのものです。20世紀を代表する理論家ケネス・アローに論文を送り、スタンフォード大学に招かれたのが28歳のとき。たちまち頭角を現し、ロバート・ソローやポール・サミュエルソン、ジェームズ・トービンらと親交を深め、弱冠35歳でシカゴ大学教授に就任する。同僚のミルトン・フリードマンと議論を闘わせるなど、まさに経済学界のど真ん中で大活躍していたのです。  ところが、不惑を迎える年、宇沢は突然帰国してアメリカの経済学者たちを驚かせました。ベトナム戦争への強い憤りが帰国を促したと言われています。  東京大学への移籍は1968年ですが、当時は水俣病や四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害病が深刻な社会問題となっていました。宇沢は公害の現場に足しげく通うようになり、『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)を出版するなど、高度経済成長の歪みに関心を集中していきました。あまりにも熱心に公害に取り組むので、「経済学から離れ啓蒙家になってしまった」と勘違いする同僚もいたほどです。  しかし実際のところ、現場を訪れることが新たな経済学を構築するためには不可欠だった。社会的共通資本という概念を生み出し、理論を築くことができたのは、日本の公害問題が世界で最も酷い状況にあったからなのです。  意外にも、この点を鋭く指摘したのは経済学者ではなく、哲学者の柄谷行人さんでした。朝日新聞で『資本主義と闘った男』を書評してくれたのですが、柄谷さんは、マルクスが『資本論』を書く場所として産業の最先進国だったイギリスを選んだように、宇沢は社会的共通資本の理論を作るために日本を選んだと評しました。本質をついた指摘だと思いますね。  斎藤さんも宇沢と同じように海外で長い研究生活を送った後、日本に戻ってこられたそうですが、何か変化はありましたか。 斎藤 私は、アメリカのマルクス経済学者のポール・バランやポール・スウィージーの本をよく読んで、勉強していました。佐々木さんの『資本主義と闘った男』を読んで驚きましたが、宇沢もバランやスウィージーと親しかったそうで、シンパシーを感じました。  スウィージーは1940年代後半に赤狩りにあって、大学で教えられなくなるのですが、その後『マンスリー・レヴュー』という社会主義のための雑誌を創刊したことで有名です。いまもこの雑誌にはマルクス経済学者たちが論文を寄せており、私の初めての英語論文が掲載されたのも『マンスリー・レヴュー』です。ドイッチャー記念賞をもらった本も、マンスリー・レヴュー出版からです。  『マンスリー・レヴュー』はアカデミックな論文だけでなく、トランプ批判や世界の社会主義運動の紹介などに関する議論も積極的に掲載しています。そこには、彼らは社会運動にも積極的に関わろうとする姿勢が表れています。  先ほど、現実に役立つような理論を作りたいと私が言ったのにも、彼らの影響があります。最近では気候変動について若い世代の人たちからも声があがるようになっているので、日本に帰ってきてからは、できるだけそうした現場に行き、対話を重ねています。こうした活動を通じて、今日の社会で起こっている問題を自分なりに受け止め、その上でマルクスの理論を組み立て直していきたいと考えています。

象牙の塔にこもる学者たち

佐々木 日本は第二次大戦後、高度経済成長で経済大国の仲間入りを果たしましたが、一方で、世界に類を見ない公害を引き起こしました。高度成長期に資本主義の陰の領域に目を向け、早くから環境問題に取り組んだのが宇沢ら少数ながら気鋭の研究者たちだったわけです。  宇沢と一緒に公害問題に取り組んだ経済学者で忘れてならないのが宮本憲一先生です。社会的共通資本という概念を考案する際、宇沢は宮本先生の『社会資本論』(有斐閣)から影響を受けたといいます。  斎藤さんと同じ大阪市立大学の名誉教授で御年90歳の宮本先生には興味深いエピソードがあります。マルクス経済学から出発した宮本先生は最も早く公害問題に取り組んだ社会科学者なのですが、当初は同僚のマルクス経済学者から批判を浴びたそうです。東西冷戦時代、マルクス主義者の間では「社会主義の国には公害が少ない」という俗説がまかり通っていた。経済体制とは関係なく公害は起こりうるという宮本先生の主張が異端視されてしまったのです。  実は、公害研究にのめり込んだ宇沢も同僚の新古典派経済学者からはいくぶん冷ややかな目で見られていました。「異端扱い」は新たな問題に挑む者の宿命かもしれませんが、いまとなっては、70年代から環境を研究対象に据え、新たな学問領域を切り拓いた宇沢弘文や宮本憲一はむしろ若い研究者のロールモデルだと思います。  いま多くの企業がSDGs(持続可能な開発目標)やESG(環境・社会・企業統治)投資を経営指針に掲げ、菅義偉内閣も2050年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすると宣言しました。ところが、世界に先駆け環境問題に取り組み、実践面でも学問面でも成果をあげた宇沢弘文や宮本憲一に言及する人はほとんどいません。実に不思議なことですね。 斎藤 大きな断絶がありますよね。宮本先生のようにマルクスについて議論していた学者が環境経済学を切り拓き、宇沢にも影響を与えたとするなら、日本の環境経済学のパイオニアは実質的にマルクス主義者だと言ってもいいと思います。ところが、宇沢の議論もそうですが、日本では過去の理論的蓄積が軽視され、マルクス派のエコロジー分析は脇に追いやられてしまっている。  確かに当時の公害と現在の気候変動では性質の異なるところもありますが、あのころの議論から学ぶべきものはたくさんあるはずです。それを参照しないのはすごくもったいない。 佐々木 竹中平蔵氏が菅総理のブレインであることからもわかるように、日本の社会はいまだに新自由主義から脱却できていません。私は小泉純一郎内閣の閣僚時代から竹中氏を批判し、『竹中平蔵 市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』(講談社文庫)も著しました。新自由主義の破綻はいまや周知の事実なのに、それに替る有力な選択肢がなかなか出てきませんね。どこに原因があると思いますか。 斎藤 現在の状況を引き受ける理論や言説が不在だからだと思います。資本主義は利潤を最優先にするシステムですから、利潤のためには容赦なく労働者のクビを切りますし、自然破壊もためらいません。  その煽りをモロに受けているのが、若い世代の人たちです。欧米で近年ポスト資本主義の理論や言説が若い世代から生まれていて、それが広く受け入れられるようになってきています。そのため、グレタ・トゥーンベリさんのような若い世代は、自分たちはもはや資本主義に付き合う必要はない、むしろ資本主義を変えなければ自分たちの将来はないと考えるようになっています。  もちろん、日本の中にも、目立っていないだけで、欧米と同じような声や願望はあります。コロナの第一波のさなか、NHKスペシャルに出演したとき、保育や医療、介護などの「エッセンシャル・ワーカー」こそ重視すべきで、コンサルタントや広告業のような「ブルシット・ジョブ(=クソくだらない仕事)」はくたばれと言ったところ、多くの反響がありました。いままでこうした言説が少なかったことに問題があるのだと思います。  もっとも、理論や言説さえあればそれで良いというわけではありません。理論が影響力を持つためには、社会運動との接点が不可欠です。  かつては日本でもマルクス主義が大きな力を持っていましたが、ソ連崩壊とともに急速に影響力を失っていきました。これは彼らが象牙の塔にこもり、社会運動とのつながりを持たなかったからだと思います。実際、『マンスリー・レヴュー』のように社会運動と関わりのある人たちは、赤狩りやソ連崩壊を切り抜け、今日まで活動を続けています。  戦後日本のマルクス主義者たちもしっかり運動とつながっていれば、そう簡単に力を失うことはなかったと思います。
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社会主義者になったピケティ
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