本作のプロデューサーである内部健太郎と永井拓郎は、「想像もしなかった衝撃のラストで締め括られるスリリングなエンターテインメントに、『社会的弱者が強者に戦いを挑む』原作のメッセージを加えたい」という意向の元で制作に着手したのだという。
劇中の仲良し3人組は共通した複雑な家庭事情を持っており、主人公2人は20歳の時に自動車整備工場で働いている。主人公サイドは経済的に裕福ではなく地位もない、社会的な弱者であるということが語られているのだ。
©行成薫/集英社 ©映画「名も無き世界のエンドロール」製作委員会
だが、あるきっかけを経て1人は裏社会で危ない橋を淡々と渡っていき、もう1人は手助けをされながらも表社会を頭脳と情熱でのし上がっていく。ネタバレになるので詳細は避けるが、この物語が「強者との戦い」そのものであり、そのために彼らは10年のも歳月をかけて「準備」をしてきたことも判明していくのである。
この物語構造は、多くの方にとっての救いになるだろう。現実を見れば、社会的地位のあるものや権力者がだけが甘い蜜を吸い、善良で一生懸命に生きているはずの社会的弱者がさらに虐げられる、という例は数知れない。せめてフィクションの中だけでも、そのような社会に一矢を報いるようなカタルシスを味わいたいところだ。
なお、佐藤祐市監督はこれまで『キサラギ』(2007)や『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』(2009)や『累‐かさね‐』(2018)など、原作者や脚本家がそれぞれ異なっていたとしても、やはり社会的弱者やはぐれ者、今まで上手く生きることができなかった人たちに寄り添う物語の映画作品を多く手掛けてきた。これは監督の資質であり、そのような作品を世に届けたいという作家としての矜持でもあるのだろう。
実際に内部プロデューサーも「自分たちに都合のいい世界に変えたり、事実を捻じ曲げてきた強者に、主人公が立ち向かっていくという物語が、まさに今の時代を反映していると感じました。彼らの10年にわたる戦いを見届けてもらえたらうれしいです」と、本作について語っている。同じように現代社会で苦い経験をしたことがあるという方に、ぜひ観ていただきたい。
劇中では、山田杏奈演じる少女が「『さびしい』『さみしい』は同じじゃない」と主張するシーンがある。漢字ではどちらも「寂しい」または「淋しい」と書くものであり、大きな違いはないようにも思えるだろう。
だが、やはりそこには明確な違いがある。実際に「さびしい」は人の感情と情景の両方に使うことができるが、「さみしい」は人の感情にのみ使う。例えば「さびしい場所」とは言うが、「さみしい場所」とは言わないだろう。つまり、少女が言う「さみしい」は、情景や環境そのものではなく、あくまで自分の気持ちそのものを指していると解釈できる。
©行成薫/集英社 ©映画「名も無き世界のエンドロール」製作委員会
そして、劇中における「さみしい」は、特に「世界から取り残されてしまう」という主観的な感覚をも示しているのだろう。その場所がいくら賑やかで人が溢れている場所(それこそクライマックスのクリスマスイブ当日の街)であっても、疎外感や孤独感を覚えているのであれば、それは「さびしい」ではなく「さみしい」のだ。
原作小説においては、さらに明確な表現で、この「さみしい」とはどういう気持ちなのか、ということが綴られている。映画だけでは理解できなかったという方は、ぜひ読んでいただきたい。